マーくんの「本を斬る」のコーナー   VOL.2

 さて本の紹介の前に、人はなぜ本を読むのでしょう。「売れている本だから」とか、「好きな作家が書いてるから」とか、一般的には言われています。

実は読書の楽しみはまったく別のところへあったのです。本を読む楽しみは知識をそれによって収集します。しかし、それだけでは不十分です。今知った知識をさも前から知っていたかのように周りの人にひけらかす必要があります。これは本人にとって大変気持ちのよい行為なのですが、友だちは確実に減っていきます

しかし、そんなことでひるんでいては「読書家」とは言えません。「読書家」はつねに孤独なものなのです。さあ、みなさんも周りから「変わった人」と思われても決してもひるまず、がんばって生きる覚悟を持ちましょう。

(本の紹介)

そういう覚悟がない人でも読んでもらいたいのが次の本です。

丸山真男 著 「日本の思想」(岩波新書)です。

 岩波新書といえば、昔、「難しい本」の代名詞のように思われ、中身はぜんぜん理解できなくとも、持っているだけで「頭の良さそうな人」と思われた時代があったと聞きます。
 よってわからないからぜんぜん読んでなくとも、昔の学生など、自分のカバンからわざとみえるように、これみよがしに岩波新書を持ち歩いた時代もあったと聞きます。

それだけ現場「権威」のあった岩波新書も、「教養はいらない、専門バカになるな、主義がすべてだ」「難しいことは権威主義だ」後日という、よくわからない批判が戦本で発生し、教養自体が否定され、その存在意義が問われてきました。

要は売れなくなってきたわけです(この現場主義論については、機会があれば又ふれます)。

これはイカン、ということで岩波新書が考え出した次なる手は、とりあえず表紙のカバーの色を変え(朱色)、イメージチェンジを図りました。

 タイトルも「なんたら政治思想史研究・概論」とか難しそうなのをやめ、「コンクリートが危ない」とかマニアック路線に変更、この路線が功を奏し、今結構な売れ行きを見せているとのことです。

しかし、本当に面白いのは実は青本、「なんたら政治思想史研究・概論」の方だったのです。

 この「日本の思想」の特徴を簡単に述べますと、日本は宗教のない国ですので、精神的・思想的な機軸をもっておらず、明治政府を完成させる前に伊藤博文は大変困ったとあります。なんせ立憲国家でそういう機軸のない国は他の国をみても存在しないからです。

(例;ヨーロッパのキリスト教など)。

 そこで出てきたのが天皇制です。伊藤博文は日本の機軸には天皇しかない、と思い、憲法をつくりました。

たしかに日本の天皇制は、廃藩置県時には多大な効果を与えましたが、では権力を天皇に集中させるかというとそうではなく、輔弼(ほしつ)制度にしておきました。このことによって逆に国家的な「無責任体質」をつくったとあります。

 具体的に言いますと、昭和天皇崩御の際、「天皇の戦争責任」が論議になりました。その責任を考える際、国民は軍体へ責任をなすくりますし、軍の統帥権は天皇にありますから、最終的に責任は天皇ということになります。しかし、天皇は「神聖にして侵すべからず」ですから、法的になんら責任はありません。

では、責任はどこへ行くのかというと、どっかへ飛んでいってしまうのです。

「天皇の戦争責任」論が単なる感情論だったり、理論的につねに整理されないのは上記のような要因があります。これは天皇が好きな人も嫌いな人も、関係なしに知っておく必要があります。

これだけ読むと「おい、コンクリートがあぶない、よりよっぽどマニアックな本じゃあねえか」と批判が出そうですが、たまにはこういうマニアックな本を読んでみるのも良いと思います。

この本は一章から四章で成り立っていて、最初の二章は論文体で読みにくいかもしれませんが、あとの二章は講演体ですので読みやすく、一度チャレンジしてみてはどうでしょうか。みなさんのご意見をお待ちしております。

(次回予告)

次回はちょっと嗜好を変えて、マス・メディアについて考えてみようと思います。

「芸能人の離婚とか、そんなんばっかり追いかけてる日本のマス・メディア、これでいいのか」とか、そんなあたりまえのことは言いませんのでご心配なく。

実はもっと危険で巧妙なメディア戦略が歴史的に行われたことを証明していこうと思っています。ではまた。