マーくんの「本を斬る」のコーナー  VOL.5


1.網野善彦先生に哀悼の意をこめて

 元神奈川大学教授、日本中世史の学者、網野善彦先生がお亡くなりになりました(2月27日)。 網野先生といえば、私たちが学校で当然のように教えられている日本の中世像について、まったく違った視点から新たな中世像を提示されていました。

 例えば有名な著書「無縁・公界・楽(平凡社)」では、権力構造の一端というイメージだった寺社勢力が、駆け込み寺に代表されるように世俗のあらゆる権力を受け付けない自由な場所(アジール)でもあったことを主張されました。また「日本の歴史をよみなおす(ちくまプリマーブックス)」では、中世の日本人の職業はほとんどが百姓、つまり農業だったという常識を覆しました。

「百姓イコール農業に従事する人、というイメージ自体が間違いである」と主張されました。

 最近では映画「もののけ姫」に関して制作上のアドバイスも行いました。本人は恥ずかしがっていましたが、「もののけ姫」は網野的中世史観をそのまま表現した映画といっても過言ではありません。つまり、権力者といわれる歴史の表舞台に立つ人々ではなく、歴史の中で黙殺されていった人々に光を当て、主人公としてこれを表現しました(注1)。

「歴史」はその時代の勝者が記したものであり、当然、都合良く変えられたりするものです。学者の世界は保守的といわれ、敗者の歴史や生活など相手にしないものですが、あえて火中の栗を拾いに行くこの姿勢は評価されてしかるべきです。

 今回の本を斬るでは、哀悼の意をこめて気鋭の歴史学者、網野善彦先生の著書を紹介します。

2.本の紹介

 紹介する本は「異形の王権」 網野善彦 著 平凡社ライブラリー 出版です。
この本の主題は後醍醐天皇を中心に据えた天皇制研究です。網野先生はここで後醍醐天皇が呪術や賤民を掌中に収めた異形の天皇であることを明らかにします。
 私はこの本をはじめて読んだとき、ちょっとショックをうけました。通常の「天皇制」論議の場合、賛成派にしても反対派にしても、天皇のイメージはどちらも似たようなものです。それは近代人である以上、「近代的歴史観」を持っているからです。この本はそれらの近代的歴史観とはまったく違った中世天皇像を示しています。
 この他にも絵巻物を元にしてさまざまな人々を取り上げています。例えば検非違使(今の警察官のような職業)や物売りの人々など、まず教科書では教えない内容です(注2)。
とにかく、一度読んでみてください。近代的歴史観の限界を感じさせてくれます。

3.最後に

ますますマニアックになっていくこのコーナー、読む人が減っては困るので、次回こそは娯楽小説をとりあげます。しかも実録ものです。お楽しみに。

注1:「もののけ姫」は評価の高い映画ですが、不満な部分があります。いわゆる歴史の中で黙殺されていった人々を描くのは大変有意義で冒険的なことですが、そこに描かれた人々があまりに明るい気がします。「賤視」から「蔑視」への変化がまだない時代を象徴しているため、あえてそうしているのはわかりますが、実際はもう少し暗かったのではないかと思います。
 それからこの話の中で一番いらない登場人物といえば「もののけ姫」自身である、と思うのですがどうでしょう? この映画が「もののけ姫」である以上、しかたないといえばしかたないのですが。

注2:注目すべき内容が数々ある「異形の王権」、しかし「女性の一人旅」の章はよくわかりませんでした。というのも、中世では女性の一人旅は数多くあり、その分襲われたりといった身体上の危険も増えると思うのですが、本文では「こうした一人で旅をする女性の場合、性が解放されていたのではないか、と考える」とあります。つまり性が解放されていたからこの時代の女性は襲われても平気だった、という意味ですが、本当かいな?と思います。とりたてて好きでもない男に襲われて平気というのはどうかなと思います。

以前網野先生は「中世の非人と遊女(明石書店)」、第2部中世の女性と遊女の章で、宣教師ルイス・フロイスの言葉を引用して同じことを主張しました。性の解放はともかく、このルイス・フロイスの話で面白いものがありますので紹介します。
例えば、フロイスは中世日本の離婚について「妻が夫を離婚するとか、離婚がしばしばあり、離婚された妻が名誉を失わないし、再婚にそれが何の妨げにならない」と言います。
江戸時代の離婚といえば、三くだり半とかいって男の方が気に入らなければ簡単に離婚した、とか、女性に離婚の自由はなかった、とかみんな教えられてきました。
しかしそれはウソであり、実際は明治時代初期の離婚率の高さからいっても江戸時代の離婚率は現代より相当高く、しかも嫁さんの方から家を飛び出すケースがかなりあったようです(高木侃の著書 三くだり半 江戸の離婚と女性たち 平凡社 参照のこと)。
 三くだり半は実際には、嫁さんに逃げられたダンナが体面を保つためにしかたなくだしたものが相当ある、と考える方が自然です。こんなところにも近代的歴史観の限界があるのです。