快感原則論 ― 楽しく生きる ―                                   

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目次

はじめに  − 楽しく生きるために −

  I 「楽しさ」とは何か
  
1 「遊び」
  2 「空間」としての「遊び」
  3 「演劇」としての「遊び」
  4 「知的遊戯」
  5 「祭」
  6 「笑い」
  7 自由について

 II なぜ今の日本では楽しく生きるのが難しいのか
  
1 労働時間
  2 終身雇用
  3 人生を楽しまないことに慣れてしまった日本人

 
III 楽しく生きるにはどうしたらよいのか
  
1 主体的に生きる
  2 主体的に生きるために個性を生かす ・ 個性を知る
  3 職業の試行錯誤 ― 転職について
  4 自由教育
   ( i )  主体性と個性をもたせる教育
   ( ii ) 「自由の意義」の教育
   ( iii ) 日本の自由の発展のために
   ( iv ) 自己主張することと「多事争論」の教育
  5 マス・メディア
  6 「年功序列社会」 と若者
  7 感性による行動
  8 芸術、特に音楽について
  9 スポーツについて
  10 ユーモアについて
  11 「生」 を楽しむ ・ 「今」 を楽しむ

 
おわりに
  主要参考・引用文献

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  III ― 4  自由教育


( i ) 主体性と個性を持たせる教育

 

  日本人には 「人と違っていたい」 と思っている人が少ないのですが、私たちは自分らしさを持たないでいて楽しく生きられるのでしょうか。あるいは、同じ考え方をする人ばかりいるのが健康的な民主社会と言えるのでしょうか。ここでは、こうした問題を教育の面から考察してみましょう。

 

    すべての人が同じ考えをしている社会は、暴走し始めても誰もブレーキを踏まず、暴走をくい止めることができません。また、個性を持たずに生きる人は、主体性のない人であるということであり、 そういう人は権力に支配され易いのです。つまり、国民の一人一人が個性を持っていないような国はファシズム (全体主義) を許してしまう可能性が強いということなのです。

    本来、健康的な社会にはさまざまな個性が存在しているものであり、すべての人が同じ状態であるのは危険な社会です。したがって、支配されることを避けるためには、国民は常日頃から個性を持つことを心がけなければなりません。また、子どもたちに、常日頃から個性を持たせる教育をしておかねばなりません。

    「自由」 と 「楽しさ」 が一体のものであるのと同様に、「自由」 と 「個性」 も一体のものです。すなわち、自由な社会は個性を尊重し、個性を尊重する社会はさらに自由になってゆくのです。自由のあるところにはさまざまな個性が生まれ、その多様性が織りなす織物が 「文化」 となります。

    また、強烈な個性の存在は自由社会を守りさらに発展させてゆくことに貢献します。 人生を楽しんでいる人、自分が本当に欲していることを実行しながら生きている人、自分が自分であることを楽しんでいる人はとても魅カ的です。個性的魅カを有する人々の存在は社会を豊かにします。さまざまな文化が融合して新しい文化が生まれるのと同様に、社会に存在するさまざまな個性が融合することによって新しい何かが生まれ、それが社会の発展を促進するのです。

    それぞれの登場人物の性格が、はっきりしていないドラマは面白くないのと同様に、市民が個性を持って生きていない社会は活気ある社会とは言えません。社会という 「劇場」 にも、その差異の素晴らしさを見せつけてくれるさまざまな優れた 「キャラクター(登場人物 ・ 個性)」 が必要なのです。

    ところが日本では、「協調性」 ばかりが重視され、「個性」 ・ 「主体性」 は軽視されています。協調性ばかりが重視される社会においては、個人の自由が尊重されず、また、各個人が自分を見失ってしまって 「楽しく生きる」 ことができません。そして、個人の自由が保障されていない社会は、最終的には破滅への道を歩むのです。


    確かに協調性、チーム・ワークといったものは必要ですが、それらは強烈な個性と個性が集合し、互いに火花を散らして激しくぶつかり合うような集団に初めて必要になってくる高度な理念です。ところが、日本の教育では、子どもたちに個性を持たせるステップを省略して、協調性だけを教育するのです。これでは 「協調性」 の教育もおかしなことになってしまいます。

    個性を持たせずに行う 「協調性」 の教育は、「協調性」ではなく 「均一性」 の教育でしかありません。日本には 「協調性」 を 「均一性」 のことだと勘違いしている人が多いのです。均一性に重きを置く教育というのは、多種多様な考え方を認めない非民主的なものであるばかりか、多数派がすべてを支配してしまう 「全体主義」 を許してしまう危険性をはらんでいるのです。

    協調性というのはみんなが同じ考えをすることもなければ、集団の中で個人が犠牲になることでもありません。各個人が尊重され、また多種多様な考え方が共存するというのが真の協調性です。

  今日までの日本において 「みんなが同じであるのが望ましい」 という教育方針は、教育をする側にとって大変都合のよいことでした。 画一的な教育をして、子どもたちを型にはめこみ、均一化してしまいさえすればそれでよかったのですから。つまり、今日までの日本の教育は教師本位のものであって、子ども本位のものではありませんでした。

  私たちは、みんなが同じであるという理由によって平等に扱われるべきなのではありません。私たちは、一人一人が異質の個性を持っているからこそ、平等に扱われなければならないのです。この意味で、日本の教育者の多くは 「平等」 を誤って解釈していると言わざるを得ません。 「和して同ぜず」 というのは 「論語」にでてくる言葉ですが、まさにこれまで述べてきたように 「協調性は重要だが主体性 ・ 個性を失うな」 という意味の言葉です。日本では儒教のこうした面はほとんど無視されているのです。

    アメリカでもフランスでも、子どもの頃から個性を持つことを教育されます。英語の “education”(教育) という語は、ラテン語の “educo” (引き出す) が語源です。教育とは子どもたちに知識を詰め込むことではなく、その子が持っている個性を引き出してやることなのです。

    「アメリカ人は個性を伸ばすためのどんな教育を受けるのですか」 と尋ねられた一人のアメリカ人は、次のように答えました。

    「私たちは、( 教えられた知識を鵜呑 [うの] みにするのではなく ) あらゆることを疑ってみることを強調して教えられました。また、自分の得意とするものを見つけ、その特技によって自分の身を支えるようにということも強調して教えられました。 “What  am I ?” ( 私って何?) と問うことは私にとってはごく自然なことであり、今までに何度も問いかけてきました。」

   「そして、さらに重要なことは人生の目的です。“What  am I here  for?”( ここに私が存在するのは何のため?),“Where do I fit in?”( 私は社会の中のどこにピッタリはまるのか?),“What can I do to make  my existence worth- while?” ( 私の存在を価値あるものにするために何ができるのか?) と問いかけることが大切です。」

  アメリカの教育は、児童 ・ 生徒たちに自らの能カに気付かせるために、個々にいろいろな体験をさせます。学校内で所属するスポーツのクラブは、一年中同じクラブにいてはならないことになっています。あるいは家庭内でも、社会の中で自分に何ができるかを知るために、さまざまなボランティア活動に参加することを勧める親が多いようです。

    また、アメリカでは、大学が志願者の中から入学者を決める際にもぺ一パーテストの点数順で決めるというやり方をしません。一定水準以上の学力を持っている志願者の中から、多様な個性を求めるのが普通です。そこには、個々人が異なる才能を持っているのに、順位を付けても意味がないという考え方が当然のこととしてあるのです。

    こうした異なる才能の持ち主を入学させ、また、入学後もそれぞれの才能が尊重される環境を与えられる結果、例えばアメリカにおけるノーベル賞の科学の分野 (物理学 ・ 化学 ・ 医学 ・ 生理学 )での受賞者だけを数えても、既に150人以上に昇ります。日本人の受賞者はまだ10人にも達していません(’96年現在)。

    ぺ一パー・テストで高得点を挙げた生徒ばかりを入学させていたのでは当然の結果でしょう (日本では大学の中にまで 「年功序列」 という考え方がはびこっていて、若い研究者にはなかなか研究費が支給されなかったり助手として年配の研究者の手伝いばかりさせられて、自分のやりたい研究がやりづらいということもあります。これが日本から優れた研究者が生まれにくいことの原因の一つになっています)。

    子どもたちの個性を伸ばすためには、まず一人一人の子どもに、自分の個性に気づかせてやらなければなりません。そのためには、本人にいろいろな試行錯誤をさせなければならないのですが、日本では 「一度やり始めたことは途中でやめてはいけません」 と教えられたり、試行錯誤することはいけないことであるかのように教えられる場合が多いのです。

    クラブ活動などでも、自分に合うクラブが見つかるまではいくつかのクラブに入部してみることも必要なはずですが、いったん入部したクラブをやめると、日本では落伍者だとか脱落者だとか言われてしまいがちです。なぜ自分に合っていないクラブを無理して続ける必要があるのでしょうか。こうした教育環境が、どれほど個性も柔軟性もない人間を育ててしまったことで しょうか。

    学校は子どもたちの個性を尊重する自由な場、あるいは、子どもたちが 「自分らしさ」 を模索するための試行錯誤をさせる自由な場でなければならないのであって、単に国語や算数を教える場であってはならないのは言うまでもありません。

    日本の大学生は、 小 ・ 中 ・ 高校時代を通じて、ほとんど自分の個性を追求することなく大学生になってしまっています。大学というところは、自分の個性を知っている人が、その個性に応じて専門的な能カを伸ばす場で あるにもかかわらず…。

    もちろん教育においては、児童 ・ 生徒たちに試行錯誤させること以外にもその目的とされるものはいろいろとあり、その一つは 「実益的な知識の教学」、すなわち、社会に出て役に立つ知識を教えることであることは言うまでもありません。

    そして、もうひとつはおそらく 「知的遊戯の教学」、すなわち、特に役には立たなくても知的好奇心を大いに満たしてくれる情報を教えることでしょう。例えば、大学の文学部でラテン語を学んでも、 社会に出て直接的に役に立つことはないでしょう。しかし、それがために大学がラテン語を教えることが無駄であるとは言えません。本来、学校 (スクール) は、暇な時間や人生を楽しく過ごす方法を教えることを目的としていたのですから ( 「知的遊戯」 のページを参照してください )、ラテン語を学ぶことによって、ある学生が、知的好奇心を満たし、あるいは一生の楽しみを見つけるのなら、こうした学問にも価値はあると言えるでしょう。

    「主体的に生きる」 のページで述べたダブル・スクール族が出現してしまうのは、大学における実益的授業が少ないからです。今後は、もっと実益的教学を行う授業を増やさなければならないのです。 また、特に小 ・ 中 ・ 高校においては、学ぶこと自体が楽しいものでなければなりません。楽しんでこそ知識 ・ 教養が身に付くのです。

    実益的な情報を教える授業でさえ児童 ・ 生徒たちの好奇心を刺激し、あるいは増進させ、最終的には好奇心を満たす喜び、知ることの快感を教えるものでなければならないのです。

    個性の話に戻りますが、江戸時代において、異端の人に対しては、村民たち自らの手で “村八分” が行われました。現代においてなおも私たちは、強い個性を持った人に対し “村八分” をしているのではないでしょうか。私たちは、どんな人も異端視せず受け入れ、例外を認める自由な社会を建設しなければなりません。 そのためにも、まずは大人が個性を持つことの重要性を認識し、 追求してみることが必要です。「人と違っていたい」 と考える日本人が15%しかいない状態が続くようでは日本の改革もなかなか進まないでしょう。

 

日本国憲法 ・ 第13条

  全て国民は、個人として尊重される。生命、自由及び幸福追求に対する国民の権利については、公共の福祉に反しない限り、立法その他の国政の上で、最大の尊重を必要とする。

 

  およそ或る人民は、見受けるところ、或る期間は進歩して、やがて停止する。では、いかなる時に停止するのか? その人民が個性をもたなくなる時である。

( J.S.ミル 『 自由論 』 )

 

 

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