快感原則論 ― 楽しく生きる ―
目次
はじめに − 楽しく生きるために −
I 「楽しさ」とは何か
1 「遊び」
2 「空間」としての「遊び」
3 「演劇」としての「遊び」
4 「知的遊戯」
5 「祭」
6 「笑い」
7 自由について
II なぜ今の日本では楽しく生きるのが
難しいのか
1 労働時間
2 終身雇用
3 人生を楽しまないことに慣れてしまった
日本人
III 楽しく生きるにはどうしたらよいのか
1 主体的に生きる
2 主体的に生きるために個性を生かす
・ 個性を知る
3 職業の試行錯誤 ― 転職について
(*「年齢差別」の問題)
4 自由教育
( i ) 主体性と個性をもたせる教育
( ii ) 「自由の意義」の教育
( iii ) 日本の自由の発展のために
( iv ) 自己主張することと「多事争論」の
教育
5 マス・メディア
6 「年功序列社会」 と若者
7 感性による行動
8 芸術、特に音楽について
9 スポーツについて
10 ユーモアについて
11 「生」 を楽しむ ・ 「今」 を楽しむ
おわりに
主要参考・引用文献ご案内の内容は書籍でもお読みになれます。ご注文いただければ、郵送いたします。
書籍のご案内を御覧ください。III ― 4 自由教育
( iv ) 自己主張することと 「多事争論」 の教育ラテン語で 「快感」 を意味する “placitum” (英語の “please” の語源) という語には 「意見」 という意味もあります。つまり、人間は自分が気に入った (自分にとって快い) 考え方を自分の 「意見」 にするということなのでしょう。
楽しく生きる (主体的に生きる) ためには、個々人が常日頃から言いたいことは言う、すなわち自己主張するように心がけておかなければなりません。
子どもにとって、親や教師はある意味では権カ者です。子どもに対し、親や教師に従うことばかりを教育していたのでは、おとなになったときに権カ者によって支配され易い人間になってしまいます。
したがって、誰の入れ知恵でもない独自の考え方を持ち、自分の頭で判断し、行動する人間、あるいは自分らしい生き方を持っている人間に育てなければならないのです。そして、自分が正しいと思うことは、場合によってはたとえ親や教師に対してでも、強固に主張する子に育てなければならないのです。
また、これからは主体性を持ち、常に自己主張していなければ取り残される、あるいは損をする時代なのだということが教育されなければなりません。自分が言わなければ、自分に代わって他の誰も親切に言ってくれはしないのですから。
特に、黙っていては自分が不利益を被る場合には、泣き寝入りをしないで、絶対に自己主張しなければならないのであり、教育によって、そういう人間を育てなければなりません。
不利益を被るたびに、いちいち主張すべきか黙っておくべきかをくよくよ悩んでしまう人間にならないためには、 そういう時には躊躇 (ちゅうちょ) せず自己主張をするということが子どもの頃から訓練されていなければならないのです。
もちろん、自己主張というのは、自分が不当な、不公平な、不利な扱いを受けている場合に泣き寝入りをせず、徹底的に主張することであって、決してわがままや身勝手ではありません。
また、民主制というものが、国民の意見を実現するものである以上は、まず各個人が社会あるいは国家に対して強固な意見を持ち、それを最大限に主張しなければならないこと、そしてそうすることが民主制、あるいは自由社会の発展につながるということも教えられなければなりません。
したがって、授業においては、さまざまな政治 ・ 社会問題についてそれぞれの生徒に実際に意見を発表させ、討論をさせることが民主国家の教育には必要なのです。アメリカではスピーチやディベート (ある議案に対して 「肯定側」 と 「否定側」 に分かれて行う討論) が教育に取り入れられています。高校や大学に 「スピーチ」 という科目のある学校も多いようです。
アメリカは移民の国であり多民族国家ですから、少数派の民族は黙っているとどんどん多数派に支配されてしまいます。したがって不利益を被りそうになった時には、声を大にして主張しなければならないのです。教育の場にスピーチやディベートが取り入れられているのは、アメリカが 「自由の国」、あるいは 「民主制の国」 であるとともに、「移民の国」 であることの影響も大きいと考えられます。
日本もこうした教育を取り入れなければ、この国からは今後も決してリンカーンのゲディスバーグでの演説やケネディの就任演説のような、歴史に残る名演説は生まれないでしょう。
日本の教育においては、多くの場合、生徒は教師から一方的に与えられる情報をノートにとって暗記するだけです。あるいは、一つしかない 「正解」 をめぐって問答が行われるだけです。多種多様な 「意見」 が発表 ・ 交換される場は与えられないどころか、生徒には意見を持つ機会すらほどんど与えられないのです。
つまり、日本の教育は先人の獲得した知識や考え方を踏襲することを教えているだけです。これでは、新しい物を発明 ・ 発見する能力や、時代を切り開いてゆく新しい考え方を生む力が芽生えないのはもちろん、思考力 ・ 判断カ ・ 批判精神が身に付かず、また、自由社会の建設もできません。そして、何よりも、このような教育を行っていたのでは、日本の子どもたちが将来を楽しく生きてゆくことができません。
封建制の時代にあっては、物事の決定権はすべて支配者にありました。したがって、国民がそれぞれの考えを主張し合い、論理と論理を対決させて物事を決めるということをしない時代が長く続きました。あるいは、聖徳太子の 「十七条憲法」 の、「和を以って貴しとなし……」 という指導に見られるように、日本人は今日に至るまで、とにかく互いが対立することを避け続けてきました。
また、被支配者の各個人が主体性を持つとか、自己主張するということは、 すなわち支配者に対する謀反 (むほん) でした。主体性を持つことは、主君に対して忠誠を果たしていないというだけでなく、主君に忠誠を果たしている他の人々とも対立することであり、それは自分と他者の間に亀裂を生じさせ、結局、その人は集団の中で孤立することを意味しました。
日本人が、今なお自己主張の不得意な国民であるのは、こうした時代が長く続いたことにより、仲間から孤立することを極端に恐れ続けたことがその大きな理由でしょう。 このため、仮に 「対決」 しようとすれば、日本人の場合は 「論理と論理の対決」 ではなく、「感情と感情の対立」 になったあげくにうやむやになったり、曖昧 (あいまい) な決着が付けられたりします。そして、 それでも日本人は 「あれ以上角が立たなくてよかった」 とか 「どうにか丸く収まってよかった」 と考えるのです (そもそも、「感情的対立」 を避けるために論理があるのですが……)。
やはり、教育の場にディベートなどを取り入れて、論理と論理を対決させる訓練をしなければならないのです。何の主張もしないで、心の中が不満でいっぱいの状態では楽しく生きられませんし、そもそも、集団の 「和」 も保てないはずです。
また、私たちは日頃から、何でも自由に言いたいことがいえる環境、すなわち 「言論の自由」 を持っておかねばならないことも教育されなければなりません。自己主張することと同時に、他の人の意見を尊重すること、あるいは相反する考え方をもそれぞれ一つの意見としてお互いに認め合い、尊重し合って生きてゆくことが教えられなければならないのです。
前述のように、国民が政治に関心を持つことは、日本政府にとって好ましからざることのようです。国民が関心を持ち、行政に首を突っ込んで欲しくないからでしょう。あるいは、批判勢力が増える ことを恐れているのでしょう。
しかし、政府に対する批判的意見も含めて、多種多様な意見が存在し、それらについて多くの人が争論する (多事争論) というのは、その国が民主的であることの証 (あかし) であり、また、悪政に対しては国民が批判をすることが、かえって民主制の保護になるという民主的理念の原点を私たちは認識し、それを子どもたちに教育しなければならないのです。
……福沢諭吉はイギリスの議会を見て 「実に不可解である。議会では互いを “敵” とののしりあっていた人々が、その後で同じテーブルについて食事をしている」 と述べました。しかし、彼はこのとき民主制の本質を見ていたのです。意見の相違が保障される社会こそが民主制なのですから……。
( イギリスのチャールズ皇太子が日本の国会で行った演説より )