快感原則論 ― 楽しく生きる ―
目次
I 「楽しさ」とは何か
1 「遊び」
2 「空間」としての「遊び」
3 「演劇」としての「遊び」
4 「知的遊戯」
5 「祭」
6 「笑い」
7 自由についてII なぜ今の日本では楽しく生きるのが難しいのか
1 労働時間
2 終身雇用
3 人生を楽しまないことに慣れてしまった日本人
III 楽しく生きるにはどうしたらよいのか
1 主体的に生きる
2 主体的に生きるために個性を生かす ・ 個性を知る
3 職業の試行錯誤 ― 転職について
4 自由教育
( i ) 主体性と個性をもたせる教育
( ii ) 「自由の意義」の教育
( iii ) 日本の自由の発展のために
( iv ) 自己主張することと「多事争論」の教育
5 マス・メディア
6 「年功序列社会」 と若者
7 感性による行動
8 芸術、特に音楽について
9 スポーツについて
10 ユーモアについて
11 「生」 を楽しむ ・ 「今」 を楽しむ
おわりに
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III ー 11 「生」 を楽しむ ・ 「今」 を楽しむ
人間は、快感を求め不快感を回避するために行動するわけですが、人間は決して 「死」 を回避することはできません。死はすべての人間に確実に訪れる 「楽しむべき時間(人生)」 の終焉 (しゅうえん) であり、だからこそ 「死」 は人間にとって最も不快なものです。私たち人間が死を恐れるのは、本能的な恐怖心からのみではありません。私たちの誰もが寿命を全うして死ぬわけではなく、事故や病気で若くして死ぬ場合もあります。このような場合を考えると、私たちは 「自分はあまり人生を楽しまないままに生き、この世に悔いを残して 『私の人生には何も楽しいことがなかった』 という失意のうちに他界するのではないだろうか」 というきわめて人間的な不安を覚えます。
本能的な死の恐怖を克服するのは難しいことですが、この 「人間的な不安」 については、私たちの心がけで克服することができます。すなわち、残りの人生を可能な限り楽しみで満たすことによって、人間は死の苦痛を最小限に抑えることができるのです。
私たちは若い時期から、人生の一日一日を可能な限り楽しんで過ごすことにより、悔いのない人生を送り、安らかな死を迎えることができるのです。この意味で、人生の目的の一つは 「安らかに死ぬこと」 にあると言えます。
「死を考えていると人生が楽しくなくなる。自分は人生をそれほど楽しんでいないかも知れないけど、でもまあ周りの人も同様だし、人生はこんなもんさ」 といったように、自分の死を “タブー” とし、目をそらしている人が日本人には特に多いのではないでしょうか。自分の命は限られたものだという意識が弱いと、管理社会の中でずるずると引きずられてしまいます。
あなたがたの勤勉は逃避であり、自分自身を忘れようとする意志なのだ。
( 二一チェ 『 ツァラトゥストラはこう言った 』 )
人生には限りがあること、また人生は思ったよりも短いということを知っている人は、決して管理されっぱなしのままでいることはできず、少しでも自分のしたいことをするための努力をします。 死から目をそらしている人は、結局は人生を十分楽しまず老いてしまい、死が近づいて初めて自分の人生を意識するのです。しかし、若い時から人生を楽しむということをしていない人が、安らかな死を迎えることは非常に難しいのです。
あたかも、よく過ごした一日が安らかな眠りを与えるように、よく用いられた一生は安らかな死を与える。
( レオナルド=ダ=ヴィンチ )
天を楽しみ、命を知る、故に憂えず。 (易経)
兼好法師は 『徒然草』 の中で次のように書いています。
……人、死を憎まば生を愛すべし。存命の喜び日々に楽しまざらんや。 ……生ける間生を楽しまずして、死に臨みて死を恐れば、この理あるべからず。人皆生を楽しまざるは死を恐れざる故なり。死を恐れざるにはあらず、死の近きことを忘るゝなり。
(現代語訳)……人が死を憎むならば、生を愛さなくてはならない。生きている喜びを日々楽しまなくてよいはずがあろうか。……生きている間に、生を楽しまないでいて、死に臨んで死を恐れるならば、これは理にかなっていない。人間がみんな生を楽しまないのは、死を恐れないからだ。( いや ) 死を恐れないのではなくて、死というものの近いことを忘れているのだ。 (第九十三段)
兼好法師は次のようにも述べています。
近き火などに逃ぐる人は、「しばし」 とやいふ。身を助けんとすれば、恥をもかへり見ず、財をも捨てて逃れ去るぞかし。命は人を待つものかは。無常の来る事は、水火の攻むるよりも速やかに、のがれがたきものを、その時、老いたる親、いときなき子、君の恩、人の情、捨てがたしとて捨てざらんや。
(現代語訳) 近所の火事などに逃げる人は、「少し待ってくれ」 などと言ったりするだろうか。(自分の)身を助けようとするので、恥をもかまわず、財産をも捨てて逃げるものだ。人の命は(火と同様に)人を待ったりは しない。死の到来は水や火の攻めてくるのよりも速く、のがれがたいものであるのに、その時になって、老いた親、幼い子、主人の恩、人の情けなどを捨てがたいからといって捨てないでいられるだろうか。 (第五十九段)
生を楽しむということは、過去や未来のことを気にかけながら生きることではなく、「今」 を楽しむということです。「今」 を楽しむという考え方は、古今東西の多くの思想 ・ 宗教 ・ 文学の中にみられます。
明日を最も必要としない者が、最も快く明日に立ち向かう。
( ギリシアの哲学者、エピクロス )
新約聖書には次のようにあります。
空の鳥をよく見なさい。種も蒔 (ま) かず、刈り入れもせず、倉に納めもしない。だが、あなたがたの天の父は鳥を養ってくださる。あなたがたは、鳥よりも価値あるものではないか。
あなたがたのうちだれが、思い悩んだからといって、寿命をわずかでも延ばすことができようか。なぜ、衣服のことで思い悩むのか。野の花がどのように育つのか、注意して見なさい。働きもせず、紡(つむ)ぎもしない。……(中略)……だから、明日のことまで思い悩むな。明日のことは明日自らが思い悩む。その日の苦労は、その日だけで十分である。
( マタイによる福音書 )
明日ありと思ふ心の徒桜(あだざくら)、夜半(よわ)に嵐の吹かぬものかは (親鸞)
「 カルペ ・ ディエム 」
17世紀ヨーロッパのバロックと呼ばれる時代に、合言葉だったラテン語で、「今を楽しめ」 の意味。また、「メメント ・ モリ」 というラテン語の格言もあり、これは 「死を忘れるな」 の意味です。
今日を自分自身のものと呼ぶことができ、確信をもって、明日よ、お前の最悪をなせ、私は今日に生きたからと、こう言える人が幸福だ、こういう人だけが幸福なのだ。
( イギリスの詩人、ジョン ・ ドライデン )
過去はもう役にはたたない。未来は不安でいっぱいだ。ただ、現在だけが、「いま ・ ここ」 だけが実在のものなんだよ。この時を ―― この日をつかめ。
( ソール ・ ベロー 『 この日をつかめ 』 )
いつだったか、私はこんな言葉を聞いたことがある。「きのうは不渡手形。明日は約束手形。きょうだけが手もとにある現金だ」。手もとの現金を思いきって使おう。きょうは二度と戻ってこない。そして、きょうという名のお金で買えるものは山ほどある。
( 南カリフォルニア大学教授、レオ・バスカリア )
今の自分が本当に望んでいるものが何か分からない時は、次のように考えてみるのも一つの方法です。―― 仮に死後の世界があるとして、自分が既にその世界にいるとします。そして、1日だけこの世に帰って来ることを許されるとしたら、自分は何をするだろうか。許される日数が 5日間だったらどうするだろうか。1か月だったらどうするだろうか。半年だったら……1年だったら……と考えてみるのです。そのようにして、私たちは 「今」 を楽しむ努力をしなければなりません。
いつか転職しようとずっと思っていながら、出来ないまま今日に至っている人は、今こそ実行に移すべき時です。会社を辞め、アルバイト生活をしながら何かの資格を取りたいのなら、そうするベきです。したいことは、「今」 やらねばなりません。来年ではもう遅すぎるかも知れないのです。
「未来」 とは 「現在」 が積み重なったものです。現在の積み重ねが未来となるのですから、未来を心配してばかりで現在を充実させていない人間が、どうして未来に幸福を持てるでしょうか。
*
花は嘆かず
坂村 真民
わたしは
今を生きる姿を
花に見る
花の命は短くて
など嘆かず
今を生きる
花の姿を
賛美する
ああ
咲くもよし
散るもよし
花は嘆かず
今を生きる