快感原則論 ― 楽しく生きる ―                                   

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目次
はじめに  − 楽しく生きるために −
  I 「楽しさ」とは何か

1 「遊び」

2 「空間」としての「遊び」

3 「演劇」としての「遊び」
 
4 「知的遊戯」

5 「祭」

6 「笑い」

7 自由について

 
II なぜ今の日本では楽しく生きるのが
   難しいのか

1 労働時間
2 終身雇用

3 人生を楽しまないことに慣れてしまった
日本人

 
III 楽しく生きるにはどうしたらよいのか
1 主体的に生きる

2 主体的に生きるために個性を生かす
  ・ 個性を知る

3 職業の試行錯誤 ― 転職について 
(*「年齢差別」の問題) 
4 自由教育
 ( i )  主体性と個性をもたせる教育

 ( ii ) 「自由の意義」の教育

 ( iii ) 日本の自由の発展のために

 ( iv ) 自己主張することと「多事争論」の
教育

5 マス・メディア

6 「年功序列社会」 と若者

7 感性による行動

8 芸術、特に音楽について

9 スポーツについて

10 ユーモアについて

11 「生」 を楽しむ ・ 「今」 を楽しむ
 

おわりに

主要参考・引用文献

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  III ー 8  芸術、特に音楽について 


   感性による行動の代表的なものに、芸術的な創作活動があります。 したがって、当然のことながら芸術は私たちに快感を与えてくれるものの一つです。 

    ミケランジェロはある時、大理石のかたまりを指差して、「この中に一人の美しい女が入っていて、外へ出してくれと叫んでいる」 と言ったそうです。―― 芸術家の心の中には、表現したい何か、いえ、表現せずにはいられない何かが宿ります。この表現せずにはいられない何かは 「インスピレーション」 と呼ばれます。

    このインスピレーションを可能なら生け捕りに、それが無理なら限りなく真理に近い状態で捕らえるために、絵画 ・ 彫刻 ・ 音 ・ 言葉などによって表現することを 「芸術」 と呼びます。あるいは、芸術とはインスピレーションを表現することによって快感を得ることです。

  巧みに表現されたインスピレーションは 「美」 と呼ばれます。また、「美」 を捕らえるだけでなく、捕らえられた 「美」 を観賞し快感を得るのも芸術的行為です ( プラトンは 「真」 ・ 「善」 ・ 「美」 への限りないあこがれの気持ちを “エロス” と呼んでいました)。

    美の追求とはまさしく快感の追求であり、芸術活動は全くもって快感原則に忠実な行為なのです。ヒトが笑っているとき、脳の中ではベータ ・ エンドルフィンという人間に快感を与える物質が出ているということは前述しましたが ( 「笑い」 のページを参照してください )、芸術的な創作活動を行っているとき、脳の中では最大限にこの物質が出ていると言われています。

  芸術とは、心の中に宿るインスピレーションを表現することと言うよりも、自然界あるいは宇宙空間に存在しているインスピレーションを、芸術家がその鋭い洞察カによって発見し捕らえると言う方がより正確かも知れません。芸術とは、自然(宇宙)と自己が一体となる行為、または自然(宇宙)と自己が対話する行為なのです。

 

  モーツァルトの音楽は、宇宙に昔から存在して、彼の手で発見されるのを待っているものをつかんだかのように純粋だ……。    

( アインシュタイン )


 

芸術は自由の娘であり、物質の要求からではなく精神の必然性から、その指令を受けることを望んでいる。

人間は美とただ遊戯すべきであり、また美とのみ遊戯すべきである。

( ドイツの劇作家、シラー )

 

自然の公然の秘密をうかがい始めた者は、自然の最も貴い解釈者である芸術に対して逆らい難いあこがれを感じる。

( ゲーテ )

 

  ☆ 音楽について

 

  人間が人生を楽しむ上で、音楽は古来から重要な位置を占めてきました。アリストテレスは 「政治学」 の中で、音楽は 「……閑暇における高尚な楽しみに対して有用だ」 と述べていますし、プラトンも精神の健康のために音楽が必要だと述べています。また、老子は 「楽 (がく) と餌 (じ) には過客 (かかく) 止 (とど) まる (音楽と食べ物 〈 の匂い 〉 には旅人も足を止める)」 と述べています。

    日本の歴史においても、例えば鎌倉時代に 『方丈記』 を書いた鴨長明は、方丈の庵での隠遁生活においてさえ、琴と琵琶を持っていました。「芸はこれ拙 (つた) なけれども、人の耳を喜ばしめむとにはあらず。独り調ベ、独り詠じて、みづから情 (こころ) を養ふばかりなり」 と方丈記には書かれています。

    音楽とは何でしょうか。―― モーツァルトの曲によって表現されているものは、モーツァルトの頭のなかに宿ったインスピレーションであって、それ以外の何物でもありません。モーツァルトは 具体的な何かを表現するために曲を書いたのではなく、ひたすらインスピレーションをメロディーで表現しただけなのです。

    したがって、音楽とは何が表現されているのだろうなどと考えるべきものではなく、聴いてここち好ければそのここち好さを楽しむべきものであり、ここち好くなければ他にここち好い曲を捜せばよいのです。音楽は科学ではなく芸術です。それは考えるものではなく、感性によって楽しむものです。

    音楽には、演奏家が頭の中に宿ったインスピレーションを演奏中にそのままアドリブで演奏 (即興演奏) するものもあります。その代表的なものがジャズです。ジャズの場合、アドリブでの演奏がふんだんに行われ、名演奏家になればなるほど、二度と同じ演奏はできないというほど即興的な演奏をします。

  そうした演奏家は、言わばインスピレーションを “生け捕り” にしているのです。( ちなみに “ アドリブ ” というのは、“ 自由に ” ・ “ 気ままに ” を意味するラテン語の “ ad  libitum ” に由来します。この “ libitum ” という語は現代英語の “ liberty  《自由》 ” の源流にあったものです。) このように、形式にとらわれず演奏家が自由に演奏するジャズはアメリカが生んだ本当にアメリカらしい芸術であり、そこには 「遊び」 の精神が満ち溢れています。

    即興表現というのはまさに音楽の根本です。クラシック音楽の指揮者・フルトヴェングラーでさえ、その著書 『音と言葉』 の中で 「すべて 『即興曲をつくる』 ということが本当にいっさいの真の音楽活動の根本形式なのです」 と述べています。

    クラシック音楽における即興曲というと、形式にとらわれない “ロマン派” の中のシューベルトのピアノ曲などが有名です。形式を重視する作曲法が行われた時代の作曲家は、“古典派” と呼ばれます。ベートーベン( 独・1770〜1827 )は、“古典派” の時代の人ですが、フランス革命 (1789) 以後の自由に対するあこがれの気持ちなどが次第に音楽にも表れるようになり、形式にとらわれない自由な曲を書き始めました。そして、彼の後期の作品および彼以降の作曲家が “ロマン派” と呼ばれるようになったのです。

    現代の日本人にとって音楽というと、多くの場合それはカラオケなのですが、欧米では多くの人々がクラシック音楽に親しんでいます。1986年にニューヨークで行われた自由の女神の100年祭では、セントラル・パークでクラシック音楽のコンサートが行われ、数十万の人々が集い、しかも演奏が始まると会場は水をうったように静かになったということです。 

    日本人には、「私にはモーツァルトの曲が何を表現しているのか分かりません」 などと言って敬遠している人や、クラシック音楽というとずいぶん堅苦しい音楽だと思っている人が多いのですが、たかが昔のヨーロッパの貴族たちの “娯楽音楽” ですから、カラオケに接するように気楽に接してみるべきでしょう。もっとも、現代においてはクラシック音楽は静粛な雰囲気の中で聴く鑑賞音楽になってしまったので、カラオケを楽しむ時のように 「飲んで騒いで」 という訳にはいきませんが……。 

        ところで、楽器を 「演奏する」 という動詞は、英語では “ play ”、 ドイツ語が “spielen”、フランス語が “jouer” という語ですが、 これらの語はすべて 「遊ぶ」 という意味の動詞です。また、「遊び」 のページで観たように、日本語でも古語において 「遊ぶ」 は 「演奏する」 の意味を持っていました。 楽器を演奏するのは楽しいことなのに、現代の日本語がそれを 「遊ぶ」 と言わなくなったのは残念なことです。もっとも、現代の日本語では 「音楽」 という文字の中に 「楽しい」 という字を見ることはできますが……。ちなみに “music” という語は、ギリシア神話において詩や音楽をつかさどる女神Muse (ミューズ) を語源と しています。

    欧米では、おとなになってからも楽器の演奏を趣味にしている人が比較的多く、コンピューター会社の社員が家でクラリネットの練習をしているとか、メーカーに勤めている人が家ではピアノを弾いているとかいったことが珍しいことではないようです。

    歴史上有名なところでは、アインシュタインはバイオリンを好んで演奏していましたし、アフリカで医療活動をしたシュバイツァーはパイプオルガンの名手でコンサート活動もしていたようです。最近の例では旧西ドイツのシュミット元首相はピアノの名人でもあり、レコードまで出していたということですし、クリントン米大統領がサックスを吹くシーンなどもテレビで放映されていました。

    もちろん日本でも、 最近ではおとなになってからも楽器の演奏を続ける人や、おとなになってから楽器を習い始める人が増えてきました。細川元首相は50歳を過ぎてからピアノを習い始め、ベートーベンの 「月光」 などの曲を弾くということです。

    日本ほど多くの子どもがピアノやヴァイオリンなどの楽器を習っている国はないと言われます。ところが、おとなになると大半の人が演奏するのをやめてしまいます。もちろん、楽器を習う子どもの数が異常に多いのですから、おとなになってやめる人が多いのは当然と言えば当然なのですが……。日本人の音楽状況を簡単に言えば、子どもの頃はどっとピアノ ・ レッスンや○○音楽教室などに流れてゆき、おとなになるとカラオケにどっと流れてゆくという状況です。

  どうして日本ではこのようになってしまうのでしょうか。 繰り返しますが、子どもに教育を施す場合に大切なことは、その子の個性を見極めることです。個性を見極めるためには、とりあえずはその子に、音楽 ・ 絵画 ・ 水泳 ・ 野球 ・ サッカーなどいろいろなことをさせてみることが必要です。さらに言うならば、そういった世界のプロの人々の熟練したすばらしい技を実際に見せてやって 「これをやりたい」 と言い出すのを待つということが大切です。

    そうした試行錯誤の一つとして楽器を習わせてみるというのは大切なことでしょう。しかし、子どもが楽器を習うのを嫌がり始めたのに、強制的にレッスンを続けさせても上達することはありません。嫌がり始めた場合は、他の試行をすることが必要です。その子は画家になる才能を持っているのかも知れませんし、水泳で活躍する才能を持っているのかも知れません。

    スイミング ・ スクールに通わせていれば、オリンピック選手になっていたかも知れない子を無理に〇〇音楽教室に通わせたばかりに、水泳も音楽も両方ともものにならなかったといったような例が日本にはどのくらいあることでしょうか。

    日本では、子どもの頃にこうした試行錯誤を全くさせてもらえることもなく強制的にピアノ ・ レッスンに通わされた経験を持つ人が多く、そういった人々が楽器を演奏することにアレルギーを起こしてしまい、結局、おとなになってからは音楽と言えばカラオケということになってしまうのは当然のことでしょう。

    また、音楽に興味を示した子どもに対しても、どの楽器をさせるべきかにおいてまた試行錯誤が必要です。CDやテープでいろいろな楽器の音を聞かせてやることはもちろん、できればプロの演奏をライヴで見せてやった上で、その子が 「あれをやりたい」 と言った楽器を習わせることが必要です。

    そして、いよいよレッスンを受けることになった際に問題になることは、良い先生につかなければならないということです。「良い先生」 というのは、たとえば、生徒が失敗しても叱らず、うまく演奏した時にほめる先生です。あるいは、生徒の持っている才能、とりわけ個性的才能をうまく引き出すことのできる先生です。

    音楽など芸術においては個性こそが命です。誰にでもできる演奏をしていたのでは少なくともプロの演奏家にはなれません。基本を踏まえた上で、その生徒にしかできない、その生徒特有の持ち味で演奏させなければならないのです。

    ところが日本の音楽の指導者は、どの生徒にも同じ教え方をして、すべての生徒を一つの型にはめこむ場合が多いと言われています。その理由は、他でもなく指導者たちが個性の重要性を知らないことや、生徒の個性を見抜くだけの能カを持っていないことにあります。もっとも、この問題は日本の教育全般に渡るものであり、音楽の指導者だけを責めることはできません。

  教育としての音楽から、芸術としての音楽の話に戻りましょう。芸術、とりわけ音楽とのかかわりを持たず生きてゆくことは、人生の大いなる喜びの一つを知らないまま生きることです。「今後は何らかの芸術あるいは手工芸に留意しないものは不幸であろう。知識はこの目まぐるしい世の中ではもはや糧にならない。すべてのことに注意しきれないうちに自分自身を失ってしまう」 と言ったのはゲーテであり、彼はベートーベンと同じ時代の人物です。働いてばかりで芸術とかかわることの少ない現代日本人にとっては、ゲーテのこの言葉が今なお色あせず存在しているのです。

 

 

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  赤ん坊がはじめて自カで、何か物にすがりつつ立ちあがったとき、会心の笑みをもらす。その微笑は、もし神というものがあるなら神の微笑とはこんなものであろうかと思わせる。

    湧きあがる自侍(じじ)のよろこび ―― と大人なら解釈するよりしかたがない。そのような自然発生的なしぐさ、表情に、大人ははや社会的訓練をくわえようとする。手と手を打ちあわせ音を発せさせる。これは道具をもつ以前の、ノン ・ オーラルな唯一の発音であった。原始の人は手を打ち合わせ、いったい何を伝えようとしたのであろうか。

    私たちは今なお、神前にかしわ手を打ち、熱狂して拍手し、そしてシャンシャンと手をしめたりする。手打ちの音は、手を道具として使おうとする人間の決意、あるいはよろこびの表現なのであろうか。

    赤ん坊に手を打たせる。それは歴史の遠い奥処(おくか)からの呼声である。しかし、生まれつつある人間を過去におしこめようとする意図の表現ではない。それは、はるかな未来につながる人間無限の可能性への呼びかけでもある。もし遊びの 「本質」 というものがあるなら、私にはこの素朴なしぐさのなかにそれが秘められているように思えるのだ。

( 多田道太郎 『 遊びと日本人 』 )

                      

 

 

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