快感原則論 ― 楽しく生きる ―
目次
I 「楽しさ」とは何か
1 「遊び」
2 「空間」としての「遊び」
3 「演劇」としての「遊び」
4 「知的遊戯」
5 「祭」
6 「笑い」
7 自由についてII なぜ今の日本では楽しく生きるのが難しいのか
1 労働時間
2 終身雇用
3 人生を楽しまないことに慣れてしまった日本人
III 楽しく生きるにはどうしたらよいのか
1 主体的に生きる
2 主体的に生きるために個性を生かす ・ 個性を知る
3 職業の試行錯誤 ― 転職について
4 自由教育
( i ) 主体性と個性をもたせる教育
( ii ) 「自由の意義」の教育
( iii ) 日本の自由の発展のために
( iv ) 自己主張することと「多事争論」の教育
5 マス・メディア
6 「年功序列社会」 と若者
7 感性による行動
8 芸術、特に音楽について
9 スポーツについて
10 ユーモアについて
11 「生」 を楽しむ ・ 「今」 を楽しむ
おわりに
主要参考・引用文献
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書籍のご案内を御覧ください。I − 3 「演劇」 としての 「遊び」
「遊び」 という概念に含まれる二つめの興味深い意味を取りあげま しょう。
英語の “play” には、「芝居をする」、「〜のふりをする」 という意味がありましたが、こういった意味について考えてみましょう。 演じるという行動は、「遊び」 の中でも重要な要素です。古今東西、子どもは 「ごっこ遊び」 すなわち何かの役を演じるのが大好きです。古代ギリシャの哲学者 ・ アリストテレスは、「模倣するということは、人間にとって子どもの時分から本然に備わっている。 ・・・(中略)・・・ 同時に、人間すべてが模倣されたる物に悦びを感ずるということも、また人間の本然である」 と述べています ( 『詩学』 より)。
また、古代中国において、「ごっこ遊び」 ばかりして勉強をしない息子に業を煮やし、学校の近くに引っ越せば 「学校ごっこ」 すなわち勉強をするだろうと考え、それを実行に移したのは孟子の母でした。この人こそ元祖教育ママと言えそうですが、「学校ごっこ」 は果たして 「勉強」 になりうるのかという疑問も出てはきます。しかし、「学ぶ」 は 「真似ぶ」 に由来するという説がありますから 「学校ごっこ」 を単なる遊びと笑うことはできないでしょう。
ごっこ遊びに似ているものに 「もの真似」 があります。これはお笑いタレントのやる最も古典的にして最も基本的な芸でしょう。あるいは、素人が宴会でやる芸としても、これほどポピュラーで根強く支持されるものはないと言えるのではないでしょうか。 アリストテレスが言うように、私たちにはいつもの自分と違う人間になってみたいという願望があるようです。つまり、「自己」 という人格から離れて自由に (他の人格に) なりたいという気持ちがあるのです。「ごっこ遊び」 にはその願望がストレートに出ています。子どもは店を持つことはできませんが、「お店屋さんごっこ」 ならできるということをまるで本能的に知っているかのようです。
また、「もの真似」 では、やっている人だけでなく、それを見ている人までが楽しくなってきます。見ている人は、田中君ではないはずの佐藤君がまるで田中君であるかのように見えてしまうおもしろさを楽しんでいるのです。
おとなになっても 「ごっこ遊び」 がやめられず、それを職業にしている人たちがいます。「俳優」 と呼ばれる人たちです。辞典で調べると、古代、「俳優」 は 「わざをぎ」 と読まれていて、もの真似や歌舞をして神を慰め、人々を楽しませる人のことだったということです (もの真似って古代からあったのですね) 。
「俳」 という字には 「そむく」、 「おどける」、 「ぶらつく」 といった意味があります。おやっ? どこかで似たような意味の言葉を聞いていませんか。そうです、「遊ぶ」 の意味に近いのです(注:「遊び」の項目を参照してください)。また、「優」 という字のもともとの意味は 「仮面をつけて舞う人」 ということでした。つまり 「俳優」 とは、本当の自分にそむいて他人になりすましたり、おどけたり、本当の自分から離れてぶらついたり、仮面をつけて舞ったりする人のことなのです。
英語では俳優のことを “actor”(男優) ・ “actress”(女優) と言います。これは 「行動する人」 という意味で、とても現実的です。 「キャラクター」 という語は 「登場人物」 という意味と 「個性」 という意味の両方を持っています。演劇とは、それぞれの登場人物が最大限に自分の役を演じきる (最大限に自分の個性を発揮する) のを観たり、さまざまな個性が織りなす世界を観たりして楽しむものです。
したがって、すばらしい演劇には決してミス・キャストはなく、それぞれの役者が自分にふさわしい役 (本当にその役になりきれるような役 ・ 演じることによって、自分の中にあるものを表現できるような役) についているのです。 欧米における演劇に関する言葉を調べてみると、欧米人が演劇と現実の生活を必ずしも区別していないことに気づきます。以下はその例です。
・ パフォーマンス=古いフランス語の 「供給する」 が語源で、現代では「演技」と「実行」の両方の意味を持つ。
・ パーソン=もちろん、「人」 という意味ですが、語源はラテン語の「ペルソナ (舞台で俳優がつける仮面)」です。
・ ドラマ=ギリシャ語の 「行動」 が語源。
・ ヒポクラシー (偽善)=ギリシャ語の 「俳優」 が語源。
ギリシャ語が登場するのは、古代ギリシャにおいて演劇が盛んであったことを示すものであることは言うまでもありません。
早くも紀元前400年に、ギリシャには石で作られた半円形の劇場が存在していました。観客は半円の部分の階段に座り、底の部分で踊りが行われました。この底の部分は 「オーケストラ」 と呼ばれていました。「オーケストラ」 は、今日では 「楽団」 の意味で使われますが、もともとは劇場の中の場所を表す言葉でした。ただし、今日でも “orchestra” を辞書で調べると、英語の辞書にさえ 「劇場の中の舞台の前の部分」 とも書いてあります。舞台の前に楽団が付いている演劇を観たことのある人は、どの場所かすぐにおわかりでしょう。あの場所に楽団がいるから楽団のことを 「オーケストラ」 と呼ぶようになったのです。
この他にも、ギリシャ語を語源とする演劇用語があります。「シアター(劇場)」 や 「シーン(場面)」 もそうですし、「コメディー (喜劇)」 や 「トラジディー(悲劇)」 もそうです。 「コメディー」 は 「陽気な歌」 というのがもともとの意味で、「トラジディー」 は 「山羊の歌」 という意味でした。「山羊の歌」 がなぜ 「悲劇」 の意味に変わったかについて、英語語源辞典から引用しましょう。
中原中也の詩集を想起させるこの語 (山羊の歌) が 「悲劇」 を意味するようになったことについては二説がある。一つはディオニューソス神の祭典で、詩人が賞の山羊を得ようと詩のできばえを競ったことに由来するという説。一つは同じディオニューソス神の祭典で、農民が犠牲に供せられる牡山羊に扮して、神をたたえる歌を踊りながら歌ったのを、見物の貴族が山羊の歌と呼んだことに由来するとする説。当初は必ずしも悲惨な内容を扱うものではなかったが、次第にその傾向を帯びるに至ったという。英語に借用されたのは14世紀。 ( スタンダード・英語語源辞典<大修館書店>による )
古代ギリシャでは、ポリス (都市国家) の公の行事として演劇が行われていたと言いますから、それは生活の一部だったと言えます。 また、当時の哲学者プラトンも、著書 『 饗宴 』 ( きょうえん ) の中で次のように述べています。
真の詩人は悲劇的であると同時に喜劇的でなければならない。人間生活のすべては同時に悲劇として、また喜劇として感じられるのでなければならない。
シェークスピアの出現を待つまでもなく、この世は舞台であるといったとらえ方はこの頃からあったのです。ヨーロッパの文化において演劇は単なる娯楽以上の地位にあったのであり、決して日常生活とかけ離れていた訳ではなかったのです。
ごっこ遊びをしている子どもたちの様子を見ていると、「演劇 (ごっこ遊び)」 と 「現実」 の間には何の区別もないことが分かります。子どもはごっこ遊びをしているうちにも、しばしば本気で喧嘩 (けんか) をします。おとななら遊んでいる時に何らかの不利益を被っても、「まあ、遊びなんだからいいや」 と水に流すのが普通でしょうけれども、子どもの世界ではそうはいきません。
なぜ、おとなと子どもの間にこのような違いが生じるのでしょうか。
結論から言いますと、おとなは 「労働」 をしなければならないことが、その理由です。子どもの頃の人間にとっては、労働をする必要はなく、遊びが現実であり日常性です。ですから、遊びで被った不利益は、そのまま、その子にとっての現実的な不利益になります。 これに対し、おとなになると遊びはどんどん 「日常性」 の隅に追いやられ、ついには 「非日常性」 となってしまいます。おとなにとっては、労働をしている時が 「日常性」 なのであり、遊んでいる時は 「非日常的」、「非現実的」 な時間なのです。だから遊んでいる時の不利益も、非現実的なものでしかなく、あっさり水に流すことができるのです。
現代の日本人には遊びの時間が非常に少なく、「労働」=「日常」 そして 「遊び」=「非日常」 という区別が明確につけられています。 しかし欧米では、特に古い時代において、この二つにそれほどの明確な区別はなかったと思われます。演劇鑑賞が生活の一部になっていた、古代ギリシャの人々などは特にそうだったのではないでしょうか。そうした環境下で、この世そのものが劇場であるという見方が人々の間に生まれても不思議はないでしょう。欧米において、演劇用語と日常生活に使われる用語との間に明確な区別がないのはこうしたことが理由だと考えられます。
現代日本人のおとなにとってさえ、「労働」=「日常」 そして 「遊び(演劇)」=「非日常」 と簡単に言ってしまうことはできません。 フィクションの演劇や映画を観るとき、それらが架空のものであるにもかかわらず、私たちは驚き、怒り、泣き、笑うのです。ましてや、俳優やプロ野球選手にとっては 「遊び (演劇やゲーム)」 と 「労働」 の間に明確な区別が存在しているなどと言うことは到底できないのです。
俳優のみならず、日本の普通のサラリーマンにとっても、それぞれの人が自分の役 (職業) を演じる俳優であるという考え方は、さほど受け入れ難いものでもないでしょう。会社員は会社員の役を、教師は教師の役を、看護婦さんは看護婦さんの役をそれぞれ演じているのです。
言葉の面でも、「…○○氏は、今回の一連の出来事の中心人物 として、重要な役割を演じていたものと思われます……」 とか 「舞台は西武球場から神宮球場に移ります」 といった表現を私たちも使っているのです。
ただし、このような表現については、英語の “ play an important role in 〜” ( 〜において重要な役割を演じる) という熟語や、 “stage” (舞台) という語の語法が日本語に与えた影響とも思われます。また、余談ですが 「役割」 を意味する “role” という語は、 “roll” (巻き紙) に由来します。昔のヨーロッパの脚本は巻き紙だったからです。
諸君、拍手を。喜劇は終わった。 ( ベートーベンの臨終の言葉 )
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・・・ ここにいるキャフェのボーイを考えてみよう。彼の敏捷 (びんしょう) できびきびした身ぶりはいささか正確すぎるし、いささかすばしこすぎる。彼はいささか敏捷すぎる足どりでお客の方へやってくる。彼はいささか慇懃 (いんぎん) すぎるくらいお辞儀をする。彼の声や眼は、客の注文に対するいささか注意のあふれすぎた関心をあらわしている。
しばらくして、彼は戻ってくる。彼はその歩きかたのなかで、なにかしらロボットのようなぎこちない几帳面 (きちょうめん) さをまねようとしながら、軽業師 (かるわざし) のような身軽さでお盆を運んでくる。お盆はたえず不安定な、均衡を失った状態になるが、 ボーイはそのつど腕と手を軽く動かして、たえずお盆の均衡を回復する。
彼のあらゆる行為は、われわれにはまるで遊戯のように見える。彼は自分の運動を、互いに働きあって回転するメカニズムのように、次から次へと結びあわせようとして、一心になっている。彼の表情や声までがメカニズムのように思われる。彼は事物のもつ非情な迅速さと敏捷さを自己に与える。彼は演じている。彼は戯れている。しかし、いったい何を演じているのであろうか ?
それを理解するには、別に長くボーイを観察する必要はない。彼はキャフェのボーイであることを演じているのである。それは何も意外なことではない。・・・(中略)・・・ 食料品屋、仕立屋、競り売り人には、それぞれのダンスがある。それによって彼らはその客に対して、彼らが食料品屋以外の何ものでもないことを納得させようとつとめる。ぼんやりしている食料品屋くらい、買物客にとって癪 (しゃく) にさわるものはない。そういう食料品屋は、もはや完全に食料品屋ではないからである・・・。
( サルトル 『 存在と無 』 )