快感原則論 ― 楽しく生きる ―                                   

筆者紹介    ホーム   本サイト内の人気ページ

 

目次

はじめに  − 楽しく生きるために −

  I 「楽しさ」とは何か
  
1 「遊び」
  2 「空間」としての「遊び」
  3 「演劇」としての「遊び」
  4 「知的遊戯」
  5 「祭」
  6 「笑い」
  7 自由について

 II なぜ今の日本では楽しく生きるのが難しいのか
  
1 労働時間
  2 終身雇用
  3 人生を楽しまないことに慣れてしまった日本人

 
III 楽しく生きるにはどうしたらよいのか
  
1 主体的に生きる
  2 主体的に生きるために個性を生かす ・ 個性を知る
  3 職業の試行錯誤 ― 転職について
  4 自由教育
   ( i )  主体性と個性をもたせる教育
   ( ii ) 「自由の意義」の教育
   ( iii ) 日本の自由の発展のために
   ( iv ) 自己主張することと「多事争論」の教育
  5 マス・メディア
  6 「年功序列社会」 と若者
  7 感性による行動
  8 芸術、特に音楽について
  9 スポーツについて
  10 ユーモアについて
  11 「生」 を楽しむ ・ 「今」 を楽しむ

 
おわりに
  主要参考・引用文献


ご案内の内容は書籍でもお読みになれます。
ご注文いただければ郵送いたします。
書籍のご案内
を御覧ください。 

 

  I ー 2  「空間」 としての 「遊び」


  さて、ここで 「遊び」 という言葉が持っている多くの意味のうちから、興味深いものを一つ選んで考えてみましょう。

     国語辞典の 「遊ぶ」 の意味は前に観ましたが、名詞の 「遊び」 を調べますと 「機械の部品と部品との間の余裕」 という意味が出てきます。例えば、自動車のハンドルやブレーキは、ほんの少し動いただけで作動してしまっては、かえって危険です。そこで、最初の少しの間は、動いても作動しないように部品と部品との間にすき間が設けてあります。この空間は、一見何の意味もないように思えますがたいへん重要な働きをしています。

    こうした空間を日本語では 「遊び」 と呼んでいるのですが、実は英語でもこの空間を “play” と呼んでいるのです (前に見た動詞の “play” の意味の中の 「休む」 に対応するものでしょう。同様に日本語の 「遊ぶ」 に 「 (機械などが) 利用されないでいる」 という意味もありました )。

  しかも、 日本語 ・ 英語以外に、ドイツ語 ・ フランス語 ・ イタリア語 ・ スペイン語 ・ オランダ語において、こうした空間を 「遊び」 と呼ぶか、または動詞を使って 「(空間が)遊ぶ」 と言っています。もちろん、この言葉は機械用語ですから、機械を発明した国が輸出する時に用語も一緒に輸出したのかも知れません。たとえそうであったとしても、七カ国の人々がこうした空間を 「遊び」 (または 「遊ぶ」 ) という言葉で受け入れているのを見ると改めて 「遊び」 という概念の奥の深さを感じずにはいられません。

    それとともに、「遊び」 と呼ばれるこの不思議な空間への興味も涌いてきます。本やノートのぺージには必ず余白の部分が設けてあります。この空間も一見無意味に思えますが重要な意味をもっています。私たちが何らかの書き込みをしたくなったとき、この空間はとても便利です。あるいは、それ以外の用途にも自由に使えます。 特に何らかの定まった目的のための空間でないからこそ、そこは 「自由な空間」 なのです。それに、もし本の各ぺージに全く余白がなくすべてがぎっしりと活字で埋まっていたら、読書という行為がどんなに息苦しいものであったでしょう。人間には 「遊び」 という名のゆとりが必要なのです。

     このように、一見無意味に見えて実は重要な働きをしていることを東洋では 「無用の用」 とも言います。「無用の用」 は古代中国の思想家の荘子の言葉です。また、「無」 とか 「空」 とかは仏教の中心的な観念でもあります。 あるいは、宇宙空間そのものが大きな大きな 「遊び (無用の用)」 であると仏教的に言うこともできるでしょう。

  宇宙空間は何のために存在しているのかと問うたところで、人間に答えられるとは思えません。しかし、存在理由が説明できないからといって、「宇宙空間は無意味な存在だ」 と結論することもできないでしょう。同様に、その宇宙空間に存在する私たち人間についても、その存在理由を明らかにすることができると言えるでしょうか。しかし、たとえできなくとも 「人間は不要な存在である」 と言ってしまうのは、あまりにも短絡的すぎるでしょう。

  仏教では、宇宙空間に存在理由がないと言うどころか、そもそも 「宇宙空間」 なるものにその実体はないということになっています。 つまり、「宇宙空間」 なるものは存在しているようで、実は、存在していると明確に言うことはできないということなのです。

  

    しかし仏教は、すべては空しいものであるとして、人間にあきらめることを説いているのではありません。宇宙空間をそのように認識することによって、初めて人間は人間らしく生きられるということなのです。「一切のこだわりを捨てよ」 と説く仏教は一つの自由思想でもあるのです。

    旧約聖書にも同様の教えがあります。「コヘレトの言葉」 において、コヘレトは、「なんという空しさ、なんという空しさ、すべては空しい」 ( 「空の空、空の空、いっさいは空である」 と訳してある聖書もあります) と言ったり、「わたしは太陽の下に起こることをすべて見極めたが、見よ、どれもみな空しく、風を追うようなことであった」 などと、一見、虚無的なことを述べています。しかし、 コヘレトが人生を投げ出している訳ではなく、彼はこう言います。 「わたしは知った。人間にとって最も幸福なのは、喜び楽しんで一生を送ることだと。」

     「人生とは何なのか」 とか 「そもそも人間とは何なのか」 などと考えていると行き詰まってきますが、行き詰まった時はとりあえず原則、すなわち快感原則に立ち戻り、楽しく生きようとすればよいということなのでしょう。少なくとも、苦しむためにわざわざ人間がこの世に生まれてきているとは考えにくいのです。

   こうして、楽しく生きることを決心した古今東西のさまざまな人々が多くの 「素晴らしい遊び」 を作りました。それは 「文化」 とか 「芸術」 とかと呼ばれているものです。それこそが人間の存在意義であり、私たちのひとりひとりが自分にとっての 「楽しみ」 を模索し、それを実現してゆくとき、それが私たちの存在理由を明らかにする行為だと言えるのではないでしょうか。

 

    

         喜びを抱く心は体を養うが

         霊が沈みこんでいると骨まで枯れる。

             ( 旧約聖書 ・ 箴言 [しんげん] )

 

 

ご意見・ご感想をお寄せください

 

書籍でお読みになりたい方へ

 

快感原則論 目次   ホーム