快感原則論 ― 楽しく生きる ―
目次
はじめに − 楽しく生きるために −
I 「楽しさ」とは何か
1 「遊び」
2 「空間」としての「遊び」
3 「演劇」としての「遊び」
4 「知的遊戯」
5 「祭」
6 「笑い」
7 自由について
II なぜ今の日本では楽しく生きるのが
難しいのか
1 労働時間
2 終身雇用
3 人生を楽しまないことに慣れてしまった
日本人
III 楽しく生きるにはどうしたらよいのか
1 主体的に生きる
2 主体的に生きるために個性を生かす
・ 個性を知る
3 職業の試行錯誤 ― 転職について
(*「年齢差別」の問題)
4 自由教育
( i ) 主体性と個性をもたせる教育
( ii ) 「自由の意義」の教育
( iii ) 日本の自由の発展のために
( iv ) 自己主張することと「多事争論」の
教育
5 マス・メディア
6 「年功序列社会」 と若者
7 感性による行動
8 芸術、特に音楽について
9 スポーツについて
10 ユーモアについて
11 「生」 を楽しむ ・ 「今」 を楽しむ
おわりに
主要参考・引用文献ご案内の内容は書籍でもお読みになれます。
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書籍のご案内を御覧ください。おわりに
ここまでさまざまなことについて述べてきましたが、このサイトの内容をもし一言で言うとするならば、ラブレー ( 仏 ・ 1496〜1553 物語作家 ) の 「汝(なんじ)の欲することを為せ」 という言葉に集約されるでしょう。幸福とは自己本来の持つ欲求を実現させることです。人間が欲求を抑え、不快感を我慢し続けることが、腰痛の原因になることは 「遊び」 のページで述べましたが、精神の調和が乱されると腰痛だけでなく体全体にマイナスの影響が出ることが、自律神経系統の働きやホルモンの分泌の研究結果により明らかになっています。
また、人間は欲求を抑え、不快感を我慢するということを重ね続けていると、自分にとって何が快感で、何が不快感なのか分からなくなってくるようです。
私たちは本当に自分のやりたいことをやりながら生きているでしょうか。高校野球の選手のように、本当に自分のやりたい何かを思いきりやっている時間が私たちにどれだけあるでしょうか。日本では高校野球の人気が高いのですが、選手たちが彼らの好きな 「野球」 という世界で思いきりのよいプレイをしている点が、思いきりの悪い生き方をしているおとなたちには羨(うらや)ましく、あるいはまぶしく見えるのがその理由でしょう。日本のおとなたちは、高校野球の選手が羨ましくてたまらないほどまでに、好きなことをやらずに生きているのです。
本当に自分のやりたいことを見つけて、それを実行あるいは実現させている人が初めて幸福感を味わえるのです。また、本当に自分のやりたいことをやっている人にしか世の中は見えてきません。そうでない人には世の中どころか、自分自身の姿すら見えていないのです。そして、自由な生き方など全く出来てもいないのに 「人生はこんなものだ」 とか 「世の中はこんなものだ」 と思い込んでいるのです。
自由でないのに自由だと思っているものほど、奴隷になっているものはない。
( ゲーテ )
たとえばビデオ・デッキの調子が悪いとき、私たちは少々費用がかかっても修理に出します。体の調子が悪いとき、私たちは医者にかかったり薬を飲んだりして健康を取りもどそうとします。ところが、心の中が楽しくないとき、私たちはあまりそれを改めようとはしません。どうしてそれを当然のことと思ってしまうのでしょうか。どうして快い状態に保つための努カをしないのでしょうか。私たちにとって最も大切な 「自分の心 ・ 自分という存在」 をどうしてそんなに粗末に扱ってしまうのでしょうか。
何を守るよりも、自分の心を守れ。 そこに命の源がある。 ( 旧約聖書 ・ 蔵言 )
私たちには 「楽しく生きる権利」 があります。あるいは 「自分らしく生きる権利」 があります。自分の人生は、他の誰のものでもなく自分のためだけにある人生です。私たちは自分自身にしかできない生き方をして、自分の存在意義を明らかにすべきなのです。
私たちは、「自分は今の自分が好きだろうか」、「今を楽しんでいるだろうか」 と問いかけてみることが必要です。そして、そうでないのなら 「どんな自分なら好きになれるのか」、「どんな生き方なら今を楽しめるのか」 とさらに問いかけ、「好きになれる自分」、「今を楽しむ自分」、「なりたい自分」 になるための努力を始めなければなりません。また、その努カが辛そうなら、その努カさえも楽しいものにすべく考えねばなりません。
毎日少しずつ努カをして、毎日一つずつ小さなハードルを越え、毎日一歩ずつ自分の夢に近づく……そうした人生が幸福な人生と言えるのではないでしょうか。
また、成功するための一つの秘訣に、常に楽観的でなければならないということもあります。落ち込んでいては成功するはずのことまで失敗してしまいます。また、目標達成のための努力そのものを楽しむ人は、たとえ目標を達成できなくても、それまでの努力に対して空しい思いをしないですみますし、ましてや 「挫折」 などという言葉と無縁に生きてゆけます。
努力が徒労に終わることを恐れる人というのは、努カを楽しむということをしない人です。過程を楽しむことをしていれば、結果のことなど全く心配することなく、その日その日に為すべきことに打ち込めるのです。
楽しく生きるということは、どんな場合でも受け身にならず、流されず、常に主体的に生きることです。禅は 「随所作主」 ( 随所に主となる ) という言葉で主体的に生きることの大切さを説いています。
もちろん、人生において自由に生きようとすれば、例えば転職などにリスクが伴います。しかし、レオ ・ バスカリア教授 ( 南カリフォルニア大学 ) が言うように、「人生で最大の危険は、危険をおかさないこと」 であり、「リスクに挑戦する人だけが、自由でいられる」 のです。
何事についても言えることですが、行き詰まったときには原点 (原則) に帰ることが大切です。人生に行き詰まったら 「快感原則」 に戻り、自分は本当にやりたいことをやっているのかどうか考え直してみることが必要です。
あるいは、本当に自分がやりたいことが何であるのかを見つけようと、あれこれ試行錯誤してみることも必要です。「よく遊び、よく学べ」 という言葉がありますが、「遊ぶ」 と 「学ぶ」 の関係は、「よく遊ベ」 かつ 「よく学ベ」 という並列の関係ではなく、「よく遊ベ」 そしてその結果から 「よく学ベ」 という縦列の関係であるととらえたいものです。
「勉強」 という語の本来の意味は、「したくないことをする」 という意味ですが、「したくないことをする」 というのは愚かな行為です。自分のやりたいことを実現させるためにはどうするべきかを考えたり、学んだりする心が真の知性です。
ある日突然に不幸は訪れますが、幸福もある日突然に、偶然に、またいろいろな形で訪れるものです。英語の “happy” という語は “happen” ( たまたま〜がおこる ) と同じ語源です。つまり 「幸せ」 とは、「たまたまそういう成りゆきになる」 ということなのです。 同様に、日本語の 「しあわせ」 も 「仕合わせ」 ・ 「為合わせ」 の意味で 「運命的めぐりあわせ」 という意味です。それはまた、“chance” という言葉が 「好機」 という意味と 「偶然」 という意味の両方を持っていることをも想起させます。
人生において、私たちの幸福を妨げている諸問題を解くには、そのキー (鍵 ・ 糸口) をつかまなければなりません。私たちが問題に直面した時は 「キーはどこにある」 と考え、捜さなければならないのですが、「キー」 というものはなかなか見つからず、意識的な努力をとりあえずやり尽くして、行動を保留している時などに偶然に見つかる場合が多いのです。
ただし、「どうせ幸せが偶然的なものに左右されるのなら、始めから努カなどする必要はない」 という考え方はいただけません。成功へのキーは偶然に見つかる場合が多いのですが、だからといって捜すのをやめるのではなく、偶然に成功へのキーを手にするまで (時々保留にすることはあっても) 決してあきらめずに努力を続けるべきなのです。
少なくとも確かなことは、努カをやめてしまった人にキーが見つかることは決してないということです。あきらめずに続けていれば、ある日たまたまふとしたことでキーが見つかり成功への扉が大きく開くというのが、私たちの生きている世界です。もちろんここで言う 「努カ」 というのは、したくもないことを無理してすることでもなければ、自分にふさわしくない道を強引に進むことでもありません。
また、どんなにキーが見つからなくても決して絶望してはいけません。不幸にも事故死してしまいましたが、F1レーサーだったアイルトン ・ セナは、生前に 「この世に生を受けたこと、それ自体が最大のチャンスではないか!」 と語ったということです。チャンスという言葉は 「キー」 と言い替えてもよいでしょう。私たちは楽しく生きるためにこの世に生まれたのであり、生まれた時点で既にそうなるための第一のキーを手にしているのです。
今の生き方が楽しくない場合は、とりあえず今の生活はやめにする (改める) ことが先決です。そして、しばらく自分を見つめ直してみること、それからいろいろな試行錯誤をしながら自分の楽しめるライフ ・ スタイルに近づいていかなければなりません。
静かに自分を見つめ直すことと、試行錯誤することは同時には出来ませんが、決して矛盾するものではありません。 社会人の場合なら、まとまった休暇などを利用して、のんびりひなたぼっこでもしながら、あるいは流れゆく雲でも見ながら本来の自分が何を望んでいるのかを考えてみるとよいでしょう。欧米では 「のんびりとひなたぼっこをすることこそ、人間にとって最高のぜいたく」 という人も多いと聞きます。
また、もともと “バカンス” という語は、“空間” という意味で、それは 「空間」としての「遊び」 のページで述べたように 「特に用途の決まっていない自由な空間 ( この場合は “時間” )」 なのです。
あるいは、“レジャー” という語も、もともとの意味は “許されている” というもので、「仕事を休むのが許されていること」 が “レジャー” なのです。つまり、“バカンス” も “レジャー” も必ずしも行楽地で遊んで時を過ごすことを意味してはいないのです。
「人間、楽しいのは子どもの頃だけだ。おとなになってからの人生には楽しさなどあまり求めてはいけないのだ。学校を卒業し、社会に出た時点で楽しい時期はもう終わりなのだ。それからは馬車馬のように働かなければならないのだ」 と考える人が日本人には少なからず存在します。人生はおとなになってからの方がはるかに長いのに、何ゆえに学校を卒業した時点で楽しい時代も終わらせなければならないのでしょう。
英語の “commencement”(卒業式) という語には “始まり” という意味もあります。学校を終えたその時から、楽しい人生の本番が始まるのです。いえ、始めなければならないのです。
「楽しく生きるために考える」 ということを今日までして来なかった人は、今からでも遅くはないはずですから考え始めるべきです。 「ここに楽しさを求める自分が存在している」 ―― 原点 ・ 出発点はこの点です。そして、「自分は何に楽しさを見いだす存在なのか ・ 自分とは何か ・ 自分は本来どんな姿をしているのか」 と考えを進めてゆくのです。その際、最初はこれまでに親や教師や書物から得た知識は、一度すべて白紙に戻さねばなりません ( もちろん、このサイトに書いてあることも……)。
* 心の深くにある喜びは、人生の指針となる方位磁石のようなものである
(マザー ・ テレサ)
そのようにして出発した考えは、やがて自分独特の人生観 ・ 職業観 ・世界観 ・ 歴史観へと発展し、それは他の誰の入れ知恵でもない自分自身の哲学の構築となるのです。“私って何?” という最初の問いかけが、やがては一本の支柱となり、ついには大伽藍 (だいがらん) となってゆくのです。
「あなたがたの意志のままに何でもするがいい、―― しかし、何よりもまず、意志することのできる者になってく れ!」
「あなたがたの隣人を、あなたがた自身と同じように愛するのもいいだろう、だが、何よりもまず、自分自身を愛する者となってくれ……」
( 二一チェ 『 ツァラトゥストラはこう言った 』 )