快感原則論 ― 楽しく生きる ―
目次
はじめに − 楽しく生きるために −
I 「楽しさ」とは何か
1 「遊び」
2 「空間」としての「遊び」
3 「演劇」としての「遊び」
4 「知的遊戯」
5 「祭」
6 「笑い」
7 自由について
II なぜ今の日本では楽しく生きるのが
難しいのか
1 労働時間
2 終身雇用
3 人生を楽しまないことに慣れてしまった
日本人
III 楽しく生きるにはどうしたらよいのか
1 主体的に生きる
2 主体的に生きるために個性を生かす
・ 個性を知る
3 職業の試行錯誤 ― 転職について
(*「年齢差別」の問題)
4 自由教育
( i ) 主体性と個性をもたせる教育
( ii ) 「自由の意義」の教育
( iii ) 日本の自由の発展のために
( iv ) 自己主張することと「多事争論」の
教育
5 マス・メディア
6 「年功序列社会」 と若者
7 感性による行動
8 芸術、特に音楽について
9 スポーツについて
10 ユーモアについて
11 「生」 を楽しむ ・ 「今」 を楽しむ
おわりに
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III ― 7 感性による行動
自由に生きるためには、私たちは何ものにも縛られてはなりません。たとえ 「理論」 あるいは 「理性」 であれ、それらに縛られていてはなりません。「理論」 や 「理性」 は時として私たちを縛ることがあるのです。 そして、自由に生きるために私たちは 「感性」 を見直さなければならないのです。ここでは、この点について考察してみましょう。
人間の脳は言語を使うとか論理的思考をするなどの理性による行動を左脳で行い、ひらめきとか芸術活動など感性による行動を右脳で行っています。 私たちがグッド ・ アイディアなどを思いつくとき、それは必死になって考えた結果であるよりも、必死になって考えても思いつかず、しばらく思考や判断を中止し、遊んでいる時などにふとひらめいたものであったり、ほとんどあきらめかけた頃に偶然ヒントが見つかったりする場合が多いはずです。紛失したものを必死に捜しても見つからなかったのに、あきらめて他のことをしているうちにふと在処 ( ありか ) を思い出したり、偶然に見つけたりするものです。捜すのをやめて遊ぶというのは 「どこにあるのだろう」 と考えていた左脳の働きをストップさせ、右脳を働かせ始めたということなのです。
楽しく生きていくためには、私たちはもっと右脳 (感性) を積極的に使うべきなのです。右脳が私たちに与えてくれるのはひらめきです。ひらめき ―― サッカーの試合中に、エリス少年がボールを持って走ることを思いついたようなひらめきです。( 「遊び」 のページを参照してください。)
’95年現在、将棋の第一人者である羽生(はぶ)善治さんの脳波を調べると、羽生さんは対局中に右脳を働かせているということです。 一般に将棋は理詰(りづ)めでやるものと思われています。もちろん、羽生さんはパーソナル ・ コンピューターを便って科学的に作戦を立てるのですが、いざ対局となると論理的に考えるのではなく、ひらめきを駆使しているのです。もちろん、それは並み大抵のひらめきではなく、コンピューターを使った科学的手法の上に使われて初めて有効なものになるといったようなひらめきなのですが。
科学は論理的思考によって成立するものですが、最強の棋士の脳の働きが改めて私たちに教えてくれることは、科学(理性)は万能ではないということです。理詰めでやると思われるような将棋においてさえいざというときには感性がものを言うのです。
科学(理性)は万能であるはずはなく、前述 ( 「笑い」 のページを参照してください) のように 「ヒトはなぜ笑うか」 についてほとんど答えることはできませんし、「泣く」 ということについてもほとんど分かっていないということです。論理的思考をする際にはその思考に使うデータが必要です。しかし例えば、私たちが自分の将来について考えるとき、私たちに十分なデータがあると言えるでしょうか。私たちの脳は、過去に起こったことを記憶する能カは持っていますが、未来に起こることを予見することにかけてはほとんど能力は無いと言えるでしょう。したがって、将来の自分について思考しようとしても、将来の世の中がどうなっているかというデータが無い状態では 「データ不足」 は否(いな)めず、思考することはきわめて難しいのです。
あるいは私たちは現在 ・ 過去に起きた出来事でさえそのごく一部を知っているのみなのです。 真の知性とは、経験や書物から得た多くの知識を駆使して判断するカのことではなく、今までに経験したことも聞いたこともないような問題に直面した時に対処の仕方を考え出す能カのことです。あるいは、決して自分自身を見失うことなく、常に本当の自分が望んでいることを実現させるべく行動できる能力のことです。
人間がそうあるためには、固定観念に縛られない自由な精神を保ち続けていなければなりません。つまり、知性とは多くの知識を持っていることではなく、こだわりのない自由な心を持っていることなのです。
ニュートンは次のように述べています。
世間で私をどう見ているか知らないが、自分自身としては、波打ち際で戯れる一人の子どものようなものと思っている ―― それは、真理の大洋がその子の眼前に探求されぬまま無限に拡がっているのに、ときたま普通のよりは色の鮮やかな小石や美しい貝殻などを見つけては喜ぶ子どものように。
「無知の知」 という言葉が、古代ギリシアの哲学者ソクラテスの教えとして知られていますが、自分たちの知っていることは、この世のほんの一部にしか過ぎないということを私たちは知らねばなりません。そして、こうした状態では、理性に全面的な信頼を置くことはできないということも認識しなければならないのです。科学というものは理性を信じることから始めるのではなく、理性を疑うことから始めるべきものです。
私たちはまた、自分にとって何が 「楽しい」 ことであるかも理性で認識しているのではありません。「楽しさ = 快感」 というものは感覚的なものです。特に、将来の自分が何に楽しみを見いだしているかなどは、論理的に予見することは不可能です。 私たちは感覚的にあるいは自由に試行錯誤することによってしか、自分にとって楽しい在り方を知ることができません。私たちは、そうした行動を行いながら人生の各瞬間において自分自身を創作する存在なのです。
知性以外の道で認識しようとすることには理論上ある種の背理がひそむ。けれども危険を虚心にひき受ける人には、理屈がこしらえたり解いてくれない結び目を行動が断ちきるにちがいない。
( ベルグソン 『 創造的進化 』 )
感覚は欺(あざむ)かない。判断が欺くのだ。 ( ゲーテ )
この空しい人生の日々に
私はすべてを見極めた。
善人がその善のゆえに滅びることもあり
悪人がその悪のゆえに長らえることもある。
善人すぎるな、賢すぎるな
どうして滅びてよかろう。
( 旧約聖書 ・ コヘレトの言葉 )
「さばかりの事に死ぬるや」
「さばかりの事に生くるや」
止(よ)せ止せ問答
( 石川啄木 )
(現代語訳)
「そんなこと(が理由)で死ぬのか」
「そんなこと(が理由)で生きるのか」
やめろやめろそんな問答は