快感原則論 ― 楽しく生きる ―                                   

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目次
はじめに  − 楽しく生きるために −
  I 
「楽しさ」とは何か
1 「遊び」

2 「空間」としての「遊び」

3 「演劇」としての「遊び」
 
4 「知的遊戯」

5 「祭」

6 「笑い」

7 自由について

 
II なぜ今の日本では楽しく生きるのが
   難しいのか
1 労働時間
2 終身雇用

3 人生を楽しまないことに慣れてしまった
日本人

 
III 楽しく生きるにはどうしたらよいのか
1 主体的に生きる

2 主体的に生きるために個性を生かす
  ・ 個性を知る

3 職業の試行錯誤 ― 転職について 
(*「年齢差別」の問題) 
4 自由教育
 ( i )  主体性と個性をもたせる教育

 ( ii ) 「自由の意義」の教育

 ( iii ) 日本の自由の発展のために

 ( iv ) 自己主張することと「多事争論」の
教育

5 マス・メディア

6 「年功序列社会」 と若者

7 感性による行動

8 芸術、特に音楽について

9 スポーツについて

10 ユーモアについて

11 「生」 を楽しむ ・ 「今」 を楽しむ
 

おわりに

主要参考・引用文献

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   III − 9   スポーツについて


  「遊び」 とは、公園や校庭のすべり台ですべる時の感覚や、ブランコで揺れる時の感覚などを楽しむことでもあります。英語の “play” には 「ゆらゆらする」 という意味がありました( 「遊び」 のページを参照してください)。

    人間にとって、体を動かすことはとても楽しいことです。「遊び」 にルールを持たせ、高度に発展させたものが 「スポーツ」 です。

    サッカーが、最初は単なる 「ボールの蹴り合い」 であったことはまず間違いないでしょう。やがて、「ゴール」 というものが発明され、そこに蹴り込むという遊びへと発展し、さらにはゴールすると1点を得るとか、コートの広さ ・ 時間制限 ・ 一つのチームの人数などが決められるようになり、今のようなサッカーが完成したのでしょう。

    スポーツが元来は 「遊び」 であったということは、言葉の面から調べても明らかです。“sport” という語の語源をたどればラテン語の “deport” という語にたどりつきます。この語は “de”(離れる) と “porto”(運ぶ) が合成されたもので、「運び去る」 という意味でした。やがてこの語が英語に入り、“disport” という語になった頃には、この語は 「気晴らしをする」 とか 「遊び興ずる」 という意味で使われていました。つまり、「運び去る」 → 「(自分を)日常的世界から離す」 → 「気を紛らす」 → 「気晴らしをする」 → 「遊び興ずる」 と変化したわけです。後に “di” の部分が発音されなくなってしまい、現在の “sport” になったのです。

     このように、元来はスポーツとは 「遊び」 であり、楽しむものです。学校の部活であれ、オリンピックを目指すのであれ、プロ ・ スポーツであれ、やる人は楽しんでいなければなりません。

    アメリカ ・ ミシガン州立大学のフットボール ・ チームの監督だったドーティーさんは、“a fun football” (楽しいフットボール) ということを盛んに提唱し、練習も試合もすべて楽しく、おもしろくなくてはならないと言ったということです。あるいは、ロサンゼルス・オリンピックの柔道の金メダリストで、今は若い選手の指導にあたっている山下さんも 「楽しむ」 ということの必要性を強調しています。

    特にアマチュアの選手にとっては、スポーツは楽しくなければ意味がないと言っても過言ではないでしょう [ “アマチュア” ( amateur ) とは “愛好者” の意味です] 。

    ところが日本のスポーツ界ではどうでしょう。本当にスポーツを楽しんでいる人は、非常に少ないと思われます。 日本のスポーツの指導者には、勝つことにとらわれてスポーツは本来楽しむものであることを忘れている人が多いのです。

 

    あるいは、トレーニングは時間をかければかけるほど、また厳しければ厳しいほど効果があると思っている人も多いようです (日本のスポーツ選手が試合前にかなりきつい練習をしているのを見て、外国から来た選手が 「なぜ日本人は試合前にあんなハードな練習をするのか」 と不思議がったといった話をしばしば耳にします)。

    また、指導者だけでなく、選手も応援する人も報道関係者もすべてが勝負にこだわり過ぎています。報道関係者は、オリンピックに出場する有カ選手についてはメダルを獲得して当然のような雰囲気を作り、獲得できなければ非難ともとれる質問を選手にぶつけたり もします。

  あるいは選手の周囲の人々も、試合に出る選手に対して 「がんばれよ」 などと言います。言う方の側が何気なく言っているこの言葉ですが、言われた方の選手にとっては相当のプレッシャー となっています。こんなとき、アメリカ人は “Take it easy” (気楽にやれよ) とか “Good luck” (ツイてるといいね) などと言います。

    たとえ、実カナンバー ・ ワンの選手でも試合の当日の運やコンディションによって勝てない場合があるのがスポーツの世界です。結局、選手たちは運を天にまかせて気楽にやるしかないのです。試合といえども、選手たちはスポーツを楽しめばよいのです。そして、見る側も選手たちのすばらしいカや技を見て楽しめばそれでよいのです。

    以前、冬季オリンピックのスケートに出場した伊藤みどりさんが、「金メダルを取れなくてごめんなさい」 とあやまっていましたが、なぜ銀メダリストがあやまらなければならなかったのでしょうか。彼女自身も報道する側も見る側も、すべてがスケートを楽しむということがなぜできなかったのでしょうか。私たち日本人はスポーツにおいても、もっとおおらかにならなければなりません。日本人が勝負にこだわって、スポーツの本質を忘れてしまっているのは本当に残念なことです。

    確かに勝つことは楽しいことです。しかし、「スポーツは楽しむもの」 という根本を忘れ、勝利だけを目的として苦痛を伴う厳しいトレーニングをひたすら行った場合、勝てなかったらそのトレーニングはいったい何だったのでしょうか。

    そうした厳しいトレーニングをさせた指導者は 「勝てなかったからといってあの練習が無駄だったわけではない。君たちは厳しい練習を経験することによって体を鍛えることができたのだし、何よりも苦難に耐えうるだけの精神カを身につけることができたのだ」 などと言って自分の指導を正当化します。

    そうだとすれば、その指導者の究極の目的は勝つことではなく、選手たちの体や精神 (忍耐カ) を鍛えることだということになります。しかし、ひたすら厳しいトレーニングをさせる日本の指導者のやりかたが、本当に選手たちの体や精神のためになっているのでしょうか。

    日本のスポーツ選手の場合、高校生でも全国大会出場レベルになると体に故障を持っているか、一度は体のどこかを痛めたことがあるというのが普通です。もちろん原因は過度のトレーニングです。もし、指導者の目的が本当に選手たちの体力向上にあるのなら、何ゆえに故障するほどのトレーニングをさせなければならないのでしょうか。

    また、精神面についても日本のスポーツ界で鍛えられるものは、苦痛を我慢する忍耐カである場合がほとんどです。忍耐を強調する教育がいかに有害であるかは 「人生を楽しまないことに慣れてしまった日本人」 のページで述べた通りです。こうした世界に身を置いていると、社会の中で不利益を被っているのに黙って言いなりになってばかりで、強く自己主張することのできない消極的な人間になってしまうのです。

  したがって、「試合には勝てなかったが君たちは心身を鍛えることができたのだ」 などというのは指導者の言い訳にもならない言い訳です。つまるところ、日本のスポーツ指導者の多くは勝つことのみを目的として、勝てなかった場合にはほとんど意味がないような厳しいトレーニングをさせているのです。あるいは、たとえ全国優勝しようがオリンピックで金メダルを取ろうが、心身へ悪影響を与えたトレーニング方法が完全に正当化されることはありません。

    ある小学校で、授業中に居眠りをしている子にどうして眠いのかと先生が尋ねたところ、その子は少年野球のチームに入っていて、そのチームでは登校前に早朝練習をしているからだと答えたということです。

    日本では、こうした例はさほど驚くべきものではありません。 以前、日本のプロ野球にマルカーノという選手がいましたが、彼の息子さんは、野球は好きだったけれど日本の少年野球チームには入りたがらなかったということです。理由は当然のことながら、日本の少年野球チームに入ると早朝練習などを始めとして一年じゅう厳しいトレーニングをさせられるからということでした。

    もちろん、少年スポーツの指導者や学校の運動部の先生の中にはスポーツは楽しむものとして、楽しい練習をさせている人もいますが、そうすると今度は親たちから練習が手ぬるいと批判される場合があるようです。特に高校時代に全国大会に出場したとか、地方大会で勝ち進んだとかの経験を持つ親の中には 「もっと厳しい練習、勝つための練習をしてほしい」 とか 「根性のある子に育ててほしい」 などと要求する人がいるようです。

    そして、そうした考えに同調する指導者が、例えば少年野球の指導において、「野球の基本は素振りとキャッチボールだ」 と言って、子どもたちにひたすらそうしたトレーニングをさせたりしています。

    キャッチボールにはキャッチボールの楽しさがありますし、子どもの頃からそうした基本練習をすることも必要でしょう。しかし、やはり野球をする子どもはゲームをしたいのであって、子どもの頃はとりあえずゲームをして 「野球はおもしろいなあ」 と思っていればそれでよいのではないでしょうか。子どもたちにとって、野球の基本は素振りとキャッチボールではなく、楽しんでゲームをすることです。少なくとも子どもたちにとって、野球はそういうものであるべきです。

    また、日本ではスポーツにシーズン分けがなく、少年野球チームや学校の野球部に入ると一年じゅう野球をしなければなりません。アメリカでは、野球は春と夏のもので、秋 ・ 冬になると野球チームにいた人たちは野球をやめて勉強をがんばったり、秋 ・ 冬のスポーツのフットボール部などに入ったりします。

    したがって、アメリカのスポーツ選手は日本の選手ほど体の特定の部分ばかりを使うことはないのでバランスのよい成長が期待でき、また故障の可能性も少ないと言えます。また、スポーツがシーズン分けされていると、自分に合うスポーツを見つけるためにいろいろなクラブに入って、試行錯誤することが容易であるという長所もあります。

  スポーツの原点に立ち返り、スポーツをする人のすべてが楽しむことのできる環境整備のひとつとして、日本でもスポーツのシーズン分けを行うことが必要でしょう。一年じゅうわき目も振らずに一つのスポーツをしていても楽しめない場合が多く、また心身のバランスのよい成長も期待できず、これではスポーツの本来の姿だとは言えないのです。

  こうした環境整備だけでなく、日本では現場での具体的な指導の方法にも深刻な問題があります。 例えば野球チームやサッカー・チームなどの場合、日本では最初にチームのみんなが輪になって体操をし、監督やコーチの指示で最後までみんなで同じ練習をします。

  しかし、このやり方では個々の選手のカはあまり伸びませんし、結果としてチーム全体も強くなれません。 チームが強くなるためには、各選手が長所を伸ばし、短所を克服しなければなりません。しかし各選手の長所 ・ 短所はそれぞれ異なります。したがって、みんなで一斉に同じ練習をしてばかりいたのではチーム全体のカはアップしないのです (* もちろん、勝利がすべてではないということが大前提ですが)。

    ヨーロッパのサッカー・チームなどでは、各選手がバラバラにウォーミング・アップをし、ウォーミング・アップが終わったあとはグループに分かれたり、あるいは個人的に自分の課題に取り組んでトレーニングを行う場合が多く、全員で同じ練習をする時間は意外に短いと言われています。

    また、元プロ野球選手でアメリカに野球留学の経験もある江川卓さんは、テレビで次のように話していました。

    「アメリカのピッチング ・ コーチは 『クセ球を投げろ。おまえにしか投げられないクセのある球を投げろ』 と指導するのに、日本のピッチング・コーチは、どのピッチャーに対しても同じように 『伸びのある速球を投げろ』 などと指導するんですよ。」

    「伸びのある速球」 というのはタイミングが合いさえすれば打たれてしまいます。打たれにくい球というのは、やはり他のピッチャーが投げないような微妙に変化する自分独特の球です。コーチは、そのピッチャーが持っている個性を生かして、独特の球が投げられるように指導しなければならないのです。

    かつてアメリカ大リーグの4割打者だったテッド・ウィリアムスが、バッティングについて述べたアドバイスは次の通りです。

     ・ 自分の使いやすいバットで打て

     ・ 自分の打ちやすいフォームで打て

     ・ 打てるボールが来たら打て

    人間は各人によって身長 ・ 体重 ・ 骨格 ・ 筋肉の付き方 ・ 運動神経が異なるのですから、スポーツ選手には各人それぞれのフォームがあってしかるべきにもかかわらず、日本のコーチが教える場合には理想のフォームは一つしかないと考えられており、ひたすらその 「理想のフォーム」 が教えられている場合が多いのです。

    江川さんの指摘した点はピッチャーの投球に限ったことではなく、日本のスポーツ全般における問題を象徴しているのです。結局、教育や音楽のところで述べたのと同じ問題がここにも存在します。つまり、日本のスポーツの指導者には全員に同じことを教えることしかできない人が多いということです。

       もちろん日本のスポーツ界にも、選手の個性を生かそうとするコーチはいます。例として、プロ野球のオリックス ・ ブルーウエイブでイチロー選手を育てたバッティング ・ コーチ *(注1)を挙げることができるでしょう。ブルーウエイブにいたイチロー選手は ’94年に “振り子打法” と呼ばれる独特のフォームでヒットを打ち続け、ついに新記録 *(注2) を樹立しました。

   

      *  注1 イチロー選手の二軍時代の河村健一郎コーチ

      * 注2 1シーズン最多安打 (210本)

 

    自分の現役時代の経験を押しつけたり、すべての選手を一つの型にはめてしまいたがるコーチが多い中で、ブルーウエイブのコーチはイチロー選手の個性を殺さなかったどころか、個性を引き出し、大きく成長させたという点で評価されるべきでしょう。もちろん、イチロー選手本人に才能があったことや本人が努カをしていることは言うまでもありません。

  今、日本のスポーツ界には、ブルーウエイブのバッティング・コーチのように選手の個性を伸ばすことのできる指導者が多数求められているのです。

  最初に述べたように、スポーツとは本来、“(自分を)日常的世界から離す” ことであるのに、日本のスポーツ界には “年功序列”、“過度のトレーニング”、“勝利へのこだわり”、“個性無視” などがはびこっており、これは日本の日常的世界そのままなのです。

 

 

 

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