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…大国主の国譲りと、影の主役、味耜高彦根神…

神代の昔、出雲の国に大国主命という神様がいらっしゃいました。またの名を大穴牟
遲神とも言われます。沢山の女神を娶り、実り豊かな国を治めておられました。しか
し、天照大神は、その「豊葦原中国」は、自分の子孫「天之忍穂耳命」が治める国で
あるとして、天より降臨されることになりました。

その頃の豊葦原中国は各地に悪神が蔓延り、騒々しく、次々に神達(天若日子等)を
遣して説得を試みます。しかし天より出雲に降り立った天若日子は、大国主命と多岐
理比売との間に生まれた姫神の下照比売と結婚して、出雲に住み着いてしまいます。
そこで、勇猛果敢な建御雷之男神を最後に使わして、国譲りを迫りました。怒った建
御方神は、頑として抵抗しましたが、脆くも破れてしまいます。そこで、大国主命よ
り一任された事代主神が「この国は天神の子に捧げよう」と仰り、国を明け渡された
のです。これを「国譲り」と言います。

注:神名について

大国主命 オオクニヌシノミコト
     古事記(以降は記と記す)日本書紀(以降は紀と記す)とも同じ表記
     またの別名として、大穴牟遲神(記)大巳貴命(紀)等その他、多数あり
     この以降「大国主」として統一し記載

天若日子 アメノワカヒコ
     天若日子(記) 天雅彦(紀) この以降は「天若日子」に統一記載

建御方神 タケミナカタノカミ
     建御方神(記)この神は紀には出てこない「建御方神」で統一記載 

下照比売 シタテルヒメ
     下照(光)比売(記) 下照媛(姫)(紀) 
     別名として タカヒメ 高比売命(記) 高姫(紀)
     以降は「下照比売」に統一

建御雷之男神 タケミカズチノヲノカミ
      
事代主神 コトシロヌシノカミ 

日本には多くの神話、伝承が残されていますが、中でも良く知られ、また特筆すべき
が、この「国譲り」から始まる「天孫降臨」のお話しです。

しかし、この時、大国主には八上比売命の間に「木俣神」沼河比売命の間に「建御名
方神」を、多紀理比売命の間に「下照日売」と「味耜高日子根神」を、神屋楯比売命
の間に「事代主命」、その他多くの異母兄弟がいました。

では、国譲りの時、その子供達は一体何をしていたのでしょう、大切にしていた領土
を、そんなに簡単に、大人しく明け渡す事ができるのか、この些細な疑問から、この
お話は始まります。

阿(遲)治志貴高日子根神(記)
味(婀膩)耜(須岐)高彦根神(紀)
阿遅鋤高彦根尊(神名)
阿遅須枳高日子命(出雲國風土記)
阿遅須岐託彦根命(神名式)
(播磨國風土記)(土佐國風土記)(出雲國神代詞)等

別名「建角身」またの名を「賀茂(迦毛)建角身命」

さて、ここに列記されたのは、ただ一人の神様です。(書物に依って文字が微妙に違っ
ていますが、この点も後に見ていくことにしましょう)が、しかし、このカミサマが、
出雲と日向、そして大和を結ぶ最も重要な人物だったのです、と言えば、ナニのこと
やら、と思われる事でしょう。

そこでこれから「アジスキタカヒコネ」という、この謎の神様の在り様を紐解いて行
くことで、歴史に埋もれ隠されてしまったものを探してみようと思います。故、原田
常治氏の著書「古代日本正史」を引用させていただくと共に、様々な資料と共に、国
譲りは、本当に平和理に決着したのか見ていくことにします。

さて、謎を秘めたカミ、それが「アジスキタカヒコネ」、この項の主人公です。
天孫降臨の折りに、この「アヂスキタカヒコネノカミ」が現れます。では古事記では
どう描かれているのか、次に見てみます。

天照大神は、天の安の河の河原に八百万の神を集められ、思金神に尋ねられて、一体
どの神様を豊葦原の水穂の国へ使わせば良いだろうと仰いました。それでは、と、ま
ずは天菩比命を遣わせる事に決められましたが、肝心の天菩比命は大国主の住む水穂
の国がすっかり気にいって、帰ってきません。では、と、次に、「天若日子」に「弓
と矢」を持たせて、水穂の国へと遣わします。が、大国主の娘の下照姫と結婚されて、
住み着かれてしまいました。そこで様子を見に「雉、鳴女」を行かせますが、「天佐
具売」が「それは悪い者だから殺しなさい」という告げ口を真に受けた「天若日子」
が「弓と矢」を使って、「鳴女」を殺してしまいます。すると、矢は鳴女を突き抜け、
天の神々の元にまで飛んで行きました。その矢を見つけた高木神は、持ち主の「天若
日子」が、悪い心使いで使ったのなら、そのまま「天若日子」の胸に当たれ、と「矢」
を投げ返します。そうして言葉の通りに、矢は天若日子の胸を貫いてしまい、彼は死
んでしまいました。妻の「下照比売」は嘆きながら葬儀を始めますが、そこに下照比
売の兄弟である「阿遅志貴高日子根神」が天若日子を弔う為やって来ます。しかし、
その姿が余りにも「天若日子」にそっくりなため、周りの誰もが天若日子が生き還っ
たのか、と勘違いしてしまいます。死者に間違われた阿遅志貴高日子根神は怒って、
その喪屋を壊して去っていきました。

このように「記」「紀」では、天照大神より命を受けて、天下った天孫族の「天若日
子」とそっくりで、天孫の統治した、葛城の地に鎮座する「雷様」だと言いわれてい
ます。これが「アヂスキタカヒコネ」のプロフィルと言ったところでしょうか。

しかし、最大の疑問は、同じ「大国主」の子供でありながら、また、記、紀を始めと
する、あらゆる古文献に、その姿を現しながら、国譲りの時に、一切彼が引き合いに
出ないのは不思議です。それは一体何故なのか、そして、出雲族でありながら、天孫
族の中でも、特に優秀だと折り紙を付けられた「天若日子」に、うり二つと言える程、
似通わなければならないのか、という、これらの謎に迫ってみたいと思います。

まずは、次に示す「出雲國風土記」の記述が興味深いので見ていきます。

「仁多郡、三津郷 郡家の西南二十五里。大神大穴持命の御子、阿遅須岐高日子命、
御須髪(みひげ)八握に生ふるまで、昼夜哭き坐して、辞通はざりき。」

このように、成人になり髭が伸びても赤子の様に泣きやまない、或いは言葉が話せな
い、というのは「記」における「須佐之男命」や「本牟智和気御子(応神天皇)」の
言い伝えと非常に似ています。言語活動が正常に行えない、これは、共通の言葉で、
互いが意志を通わすことが出来ない事か、あるいは幼児性を指すと思えます。ただし、
幼児性が様々な可能性、それはまた神秘性も内包している事、も考慮に入れなければ、
単に幼いだけで終わってしまう点に注意が必要です。また風土記は続いて、

「尓の時、御祖の命、御子を船に乗せて、八十島を率巡りて、宇良加志給へども、猶
哭くこと止まずありき。大神、夢に願ぎ給ひしく、「御子の哭く由を告らせ」と夢に
願ぎ坐ししかば、則夜の夢に御子辞通ふと見坐しき。」

要約すれば、此の後、父神が船を漕ぎ出し、御子を育てる、というのですが、そこで
は、母よりもむしろ父の存在が重要視され、また悩んだ末に夢に依って神託を受け、
言語を得る事が出来たと言う点も、「本牟智和気」と共通します。そこには「言語」
「父親」「神託」が、意味深くまた共通して現れる点に注意を向けたいと思います。
どうやら重要な人物(神)には、こうした神秘的な共通項を、何故か持たされている
ようです。    

次に、この頃の家督の相続権について記して置きたいと思います。
原田氏も言及されたように、原初の日本、それは倭と呼ばれた時代と考えても良いの
ですが、この時代の頃は、現在の様な長男長女に、家長が家督を相続させるという事
は無く、専ら末子相続が一般的な概念として在った様です。先に生まれたものから順
に近隣の邑を統治し、その邑と邑とを血縁で結託させ、いわゆるテリトリー的に邑を
次第に広げ、結果的に、末子が最終的に家督を相続する、というスタイルで、国(む
しろ邑共同体と考えた方が理解しやすい)単位の、相互統治が行われていたと考えて
良いようです。

この事の証左が、国譲りの折り、「事代主」が末子であった故に「大国主」は事代主
に全てを一任している、と語ったのでしょう。故に「アヂスキタカヒコネ」は、この
国譲りという舞台では既に「一つの大きな集団を抱える族長」としての基盤が在った、
という可能性がある事、そして、その故に、出雲の国、という場から切り離し、新た
に独立し、別の舞台での位置が確保出来うるだけの発言権(力量)を持っていた、そ
の事を否定できない、こうした点に二つ目の注意を向けたいと思います。

さて、出雲大社が建立されて後、出雲国造が天皇の前で読み上げる文章がありました。
これが「出雲国神賀詞」です。この中に「大穴貴命の御子、阿遅須岐高日子根の御魂
を葛城の鴨の神奈備に坐せ…」という言葉が出てきます。現在では京都の下賀茂神社
の神様として日本中で広く信仰されています。

しかし、出雲の「大国主」の子孫である「味耜高日子根神」が何故、大和の本拠地で
ある葛城の鴨(賀茂)の神奈備で祭られる様になったのでしょうか。よく考えてみれ
ば、これも不思議な事です。

その原田氏の説で解く所、「味耜高日子根神」は、自ら、出雲の特使としての立場で、
日向と連携しつつ、大和へ入ろうとした「イワレヒコ」(神武)を補佐し(ヤタガラ
スになったという)最終的には大和への追随という形で、原初大和の建国に、深く携
わったとされています。

また、他の文献を見てみると、また違う表現もあります。即ち、賀茂建角身(記)と
いう名前を冠する時、古事記では「迦毛大御神」と表記します。「オオミカミ」と呼
ぶのは「天照大神」「伊勢大御神宮」「伊邪那岐大御神」など、極限られています。
言い換えれば、特別な「最高神」を表しているのです。すると、そう讃えるだけの、
大きな功績や、誉れ高い何か、が在ったと考えるのが自然です。

確かに「アヂスキタカヒコネ」が大和という國で、大きな働きをした、影響力を持っ
ていた、そう考えると、記、紀を始めとする様々な文献とも、原田氏の説とも合致し
てきます。つまり「日向」「出雲」間の中継役と「大和」への協力を惜しまなかった、
つまりは、天照大神が國譲りを出雲に迫った時、その内容が「アヂスキタカヒコネ」
にとって、敢えて異論を唱えるだけの不満が無かった、それが、ここまでの疑問に対
する「理由」なのでしょう。

更に付け加えるなら、逆の立場で見れば「大和」にとっても、「日向」にとっても「
出雲の実力者」である「味耜高日子根」が、彼らに協力的だった故、特別に大事な存
在であって、余り粗末な扱いが出来なかった、それが「天孫族」の「天若日子」との
相似というスタイルを示すことで「正当性」強調しようとした結果なのではなかろう
か、と想像できるのです。

また、更に「須佐之男命」や「本牟智和気御子」の様な、特別な偉大さを強調させる
為に、神秘的操作を目的に「成人してなお哭く」という、出雲國風土記にある、特殊
な生い立ちを表現する必要があったと見なすことが出来ると言えるでしょう。古事記
における「オオミカミ」という表現も、そうした格付けの意味でも必要だったと考え
るのが自然です。

そして、不都合な部分は切り取られ、謎の神様「アヂスキタカヒコネ」は、国譲りの
時に、一切その姿を出すことなく、いきなり大和の葛城という場所に祭られる事になっ
た、と、これが本質ではなかったか、と考えることが出来ます

しかし、もう一つ疑問が生じます。何故、鴨という言葉が表現されたかという事です。

ここで再び当初の名前を表示してみます。

阿(遲)治志貴高日子根神(記)
味(婀膩)耜(須岐)高彦根神(紀)
阿遅鋤高彦根尊(神名)
阿遅須枳高日子命(出雲國風土記)
阿遅須岐託彦根命(神名式)
(播磨國風土記)(土佐國風土記)(出雲國神代詞)等

これから、多くの史書に、様々に表記された名前を辿りながら、その謎を辿ってみよ
うと思います。

実は、古代日本と古代朝鮮国は密接な繋がりがあった事は、現在の様々な発掘調査で
も既に実証されています。この古代朝鮮語に解く鍵があったのです。

アヂという言葉ですが、この発音は「古代朝鮮語」で「鴨」を指すというのです。
鴨は冬になると集団で飛来して水辺で過ごします。暖かくなると再び北を目指して飛
び去るのですが、この鴨をアヂ、その鴨の集団で過ごす様子を「アヂムラ」と言うの
だそうです。このことから、北の国(それは異国としての未知の土地なのでしょう)
からやって来て、彼の属する集団で季節を過ごす形を、アヂ=鴨と見なしたと考える
事は可能です。

ゆえに、阿遅(味)=アヂ=鴨=賀茂という仮説を立ててみましょう。鴨の飛来する
地「北の国」それは「朝鮮半島」や「大陸」でもあります。鴨のように、北の国から
飛来し、やがて再び飛び去っていく姿に、共通性を見出し、「アヂスキタカヒコネ」
は「鴨(賀茂)の神様」様な目線で見られていたのかも知れません。結局、大陸的渡
来民の出生であった可能性も見えてくるという事です。南方から来るツバメとは意義
も生活も違うという事です。

出雲と古代朝鮮の関わりをみても、血統的に密接な繋がりがある事を示唆している、
と言えなくもありません。スサノオの別名は古代朝鮮語に縁の深い「フツシ」といい、
スサノオの父は「フツノミタマ」と呼ばれています。また、天照大神が岩戸に隠れて
しまわれた時、岩戸の隙間からご自身の顔を映された鏡とは、「八尺(咫)鏡」(記)
と言い、またの名を「マフツノカガミ」(紀)とされています。文献では「フツ」は
専ら「物を切る音」としていますが、単なる音表記だけで済ませるには安易過ぎると
思えます。

さて、ここで、古代朝鮮語と古代日本語の相似性を、かい摘んで見てみます。
家屋の母屋は日本語で「モヤ」と言いますが、韓国語で「母」の事を「オモ」と言い、
良く似ています。しかし元々、古代朝鮮語では、母を「アマ」と言った様で、これが
海を隔てた二つの国で、どう変化したかを列記してみます。

   日本 アマ アバ アハ オハ オカ (お母さん)
母 
   朝鮮 アマ オマ オモ (オモニ)

また、或いは次の様に、

   日本 コリョ コラ コナ コマ
高麗 
   朝鮮 カウリ コリア

という読み方も在る。ここからも解ることですが、高麗=狛=巨摩=駒という近似語
も、この音韻変化から理解できると思います。それが、同時に、音訓読み変化をして、
「高麗(コウライ)=狛(コマ)=駒(ウマ)」となる事にも気づきます。

さて、ここで少し寄り道ですが、言葉、或いは文体に関して記してみます。

実は、日本書紀では「宣命体」というスタイルで天皇の言葉が記されています。遙か
古代から日本には「言霊」という概念があって、言葉を使用して何かを発言すると、
その通りに「現実となる」呪的な感覚があった様です。その為、特に天皇の発言には、
正確の上にも、より正しい発音が要求されました。そこで「漢字仮名交じり文」であ
る「宣命体」という形で文章が書かれる様になりました。それは後の一般的な書物の
文体にも多大な影響を与えました。

そこで、祝詞で使用される「宣命体」の万葉仮名を一部見てみます。

 あ い う え お   か き く け こ   さ し す せ そ
  阿 伊 宇 衣 乎   加 伎 久 介 古   左 志 須 世 曽

 が ぎ ぐ げ ご  いち に さん し ご
 賀 疑 具 宣 碁   壱 弐 参 肆 伍 

このような文字を使い、主となる言葉の次に、小さな文字で発音部分を書き付け、全
文を表しました。それは、実は現在でもよく使われているのです。一般的なのが1、
2、3等、数値を使うとき「壱」「弐」「参」等と変更できない文字を使います。こ
れは、そうした名残り、とも言えるのです。 

先に、アヂは古代朝鮮語と繋がりが深いと、記しましたが、次のスキは何と考える事
が出来るでしょう。

スキというのは「製鉄集団」に代表される「農具」である「鋤」とも言える事から、
「農耕」の神様にも見られる所以になっていますが、別の意味で「須」はスサノオに
も使われる言葉ですし、「岐」は「イザナギ」にも同じ表現がされています。また、
スキでは無く、志貴(シキ)ともされる場合も在ることから、「高貴」だとか、「素
晴らしい」という表現に使われた可能性もあります。

宣命体的表現から言えば、シキは「志伎」でも良い訳です。わざわざ尊ぶ意味の「貴」
の字を使うには、それ相当の理由も必要だと思えます。つまり高貴だとか尊いとい
う意味を意図的に内包させる必要があった、と言える可能性がある、という事です。

さらに、最後のタカヒコという部分ですが、これは出雲国風土記に重要な部分がある
ので見てみたいと思います。

「高岸の郷。郡家の東北二里、天の下所造らしし大神の御子、阿遅須枳高日子命、甚
く昼夜哭き坐しき。仍りて、其処に高屋造りて坐せき。即ち高椅を建てて登り降らせ
て、養し奉りき。故、高崖と云ふ。神亀三年、字を高岸と改む。」

昼夜違わず泣いている「阿遅須枳高日子」を養育する為に高椅(タカハシ)を立てた、
という記述は大変に興味深いものです。高椅とは、何を指すのでしょう。説明文には
「高床式の建物」を建て、そこに「御子」に住んで頂き、高い梯子を立てて上り下り
させ、養育された。とされています。ここに「タカヒコ」という名の冠された理由が
あるようです。

タカヒコ、どうやらそこには、高い場所と低い場所を往来する意味を持つ、という考
えが在ったようです。

また、ハシは「橋」「梯子」「階段」ともなり、違う二つの場所を繋ぐものとしての
意味を持っていますが、その他にも、現世と来世や、人間と神、という、次元の違う
世界を繋ぐ、そうした神秘性をも「ハシ」は持っています。そうした意味からも、
「ハシ」で養育されたこの神の、偉大さ、神秘さを強調したのではないか、と考える
事が出来るのです。ただ、単に、神の御子が泣き叫んで仕方が無いので、大人しくなっ
て貰えるように「ハシを建てて育てました」では安易過ぎる理由に思えます。

こうした記述を見ていて、ふと気づくのは、先に出雲大社から出土した「心御柱」の
遺跡です。「雲太、和二、京三」と昔語りに謂われる様に、出雲大社は、古くから日
本随一の最高建築物であったとされています。その高さは「崖」(ガケ)と表現して
余りあるものではないかと考えられます。すると「高日子根」が「ハシ」を介して育
つ、という意味は、一体何なのでしょう。単純に見れば、まるで、父神「大国主」を
祀る神殿に、それまで行くことが出来なかった(神殿は崖の様に高く階段が無かった)
けれども、子供である「味耜高日子根」が、その実力で「階段」を造らせ、行き来が
出来るようになり、落ち着かれた、とでも言いたいように見えてきます。

また、御柱祭で有名な「諏訪社」の祭りでは、その年の氏子が禊ぎをして、木皮を剥
いだ大木を山から切り出します。この有名な祭りでの「心御柱」はトーテムポールや
ドルメンの様に「地中に突き立て」て終えるのです。年毎に繰り返されるのも、神の
神性を新たに呼び起こす、「死」と「再生」を表す神聖な儀式だからなのでしょう。
同じように「天若日子」と「味耜高日子根」を表裏一体として、「死」と「再生」の
表現と見なす考え方は、古くから一般的に言われている事でもあります。

さて、日本書紀の記述の中、イザナギ、イザナミが多くの神達をお生みになられる折
り、火の神であるカグツチの神にイザナミはホトを焼かれて死んでしまいました。す
ると、怒ったイザナギは剣を抜いて、カグツチを斬り殺します。その時の剣は「十握
剣」と呼ばれています。次に、天照大神が須佐之男とウケヒをされた折り、その口に
「十握剣」をくわえて、噛み砕きます。さらに、天孫降臨の折り、建御雷之男神(建
甕鎚神)が、「十握剣」を地面に突き立てて、国譲りを迫ります。また、味耜高日子
根命は、天若日子のモガリにやって来て、死人である天若日子に間違えられた事に腹
を立てて、モガリの屋敷を切り倒します。これに使われたのは「十握剣」です。

「十握」とは大きなサイズを表しているのですが、単にそれだけなのでしょうか。ど
うやら神宝に近い、共通する偉大な物を指しているようです。

味耜高日子根が持つ「十握剣」は「記」に依れば、別名「神戸(渡)(かむと)剣」
ともいわれています。出雲には「神門」(かむと)という郷があり、ここは古くから
鉄製品の産地として重要な場所でもありました。これらからも関連性を見出す事も出
来るでしょう。また、神門郷は出雲國風土記の記す「高岸」のある場所でもあります。
これまで記したように、出雲の神性を証明する場でもあるのです。

さて、奈良から、葛城山を越え、金剛山を過ぎると御所の高鴨神社が見えてきます。
賀茂の神奈備と言われた御所の地に「味耜高日子根神」は定住したのでしょうか。目
の前に緩やかに流れる紀ノ川沿いに、僅かに下れば、そこはもう大阪湾です。川が当
時の移動手段であった頃、交通の要衝、要塞としての高鴨の地だった…のかも、知れ
ません。

結局、味耜高日子根神という存在なくして、これら「国譲り」から始まる天孫降臨の
お話は「あり得なかった」と言えるでしょう。

一般に言われているお話しからすれば、元々出雲では「建角身」と呼ばれていました。
その名前の通りに、雄々しく、強く、猛々しく生きた神だったのでしょう、それが、
大和朝廷という場で、記、紀を通して、作り替えられ、美化され「アヂスキタカヒコ
ネ」となった…。一方の建御方神は、戦いに敗れ、母の生地である沼河比売のおられ
た東北を目指し、結局諏訪まで逃げ延び、生涯を終えます。今も諏訪大社の祭神とし
て祀られています。また、事代主は出雲で隠棲された様です。大国主という一人の首
長から生まれながら、その子供達のそれぞれの、後の生涯というのは、大きく異なっ
ていたようです。

ところで、建角身、この名前も意味の深いものが在るように考えられます。
九州の熊本、ここから興味深い古墳が発見されています。チブサン古墳というその石
室内部の壁画は、高松塚やキトラ古墳を繊細で美術的、という見方から言えば、非常
に抽象的ですが、その赤と黒の対象はパワフルで、見る者を引きつけて止みません。
時代的には高松塚よりも百年古い古墳なのだそうですが…。

その石室には、抽象的な中に唯一、物体的に描かれた「人物像」らしき姿があります。
それは、雄々しく両手を空に振り上げ、猛々しく何かを叫んでいる様です。その頭に
は、二つの角らしき突起と、頭の頂上にその力を誇示する様な、被りものらしい出で
立ちで、こちらを睨みつけている様です。彼は「強さ」を、これでもか、と誇示して
います。

この絵は、まさに「武角身」そのままの姿を現しているように感じてなりません。一
つの国(邑)を統治する、それは、まさに「力強さ」無くては出来ない事だったので
しょう。アヂスキタカヒコネ、彼は、出雲の子として、雄々しく強く生き抜いた、そ
れは強大な神だったのです。

最後に、
福島県会津若松と九州の宮崎椎葉村、この遠く離れた二つの場所から、ある、共通す
るものが発見されました。現在、静岡大学農学部で助教授をされる「佐藤洋一郎」氏
が研究されている「遺伝子レベルのプラントオパール」で、熱帯ジャポニカ米が、こ
の遠く離れた二つの場所から見つかったという報告をされたのです。これは一体何を
指すのでしょう。

実は、つい最近の昭和年代まで国が直接「味耜高日子根神」を祀る神社が、会津若松
のすぐ近くにありました。東白川郡棚倉町の「都々古別神社」です。そして、宮崎の
椎葉村の近くにある西都、そこでは、出雲地方でしか見あたらないという「方墳」が
一基出土しています。原田氏はこの方墳を「大国主」のもの、と見ています。

熱帯ジャポニカ米は、南の地方から北の国へと渡る内に、その性質が変化して生まれ
た南国育ちの日本米です。米の原種とも言えるモノです。現在食べている米は、遙か
な古代、熱帯ジャポニカと温帯ジャポニカの交配に依って、「早生」「中生」「晩生」
という様々な品種が作り上げられ、今に至ったのです。その南の国から来た原種の稲
の種を持って、一体誰が、遙か離れた、それぞれの場所へ、米を植えたのでしょう。
血縁で結ばれた民族が、どんな人を中心に動き、どの様に生きたのでしょう。背後に
「アヂスキタカヒコネ」が見え隠れしていることを否定する事が出来ません。

出雲の巨大な神殿、大王、米作、熱帯地方と温帯地方の融合、そして、朝鮮半島と出雲
の密接な繋がり、出雲、日向、連合体から倭へ、全国統一国家への遙かな道筋。

私たちは、私たちの知っている事よりも、更に多くの謎を秘めた神々に依って、現代
という時間を生きているのかも知れません。

 西暦2002年5月朔日